生地を寝かせている間に
香気成分が増加する
そば打ちの最初の工程である水回しにも、香りの生成に関わる化学反応が潜んでいます。
そば粉に水を加えると、酵素が活性化します。脂質を分解するリパーゼが働き始め、脂肪酸が生成される。さらにその脂肪酸が酸化されてアルデヒドに変わる。この一連の反応が、水回しの段階で急速に進行します。
そばを打っていると、水回しの途中から独特の香りが立ちのぼってくる。それはそば粉のなかに閉じ込められていた成分が、水と出会うことで化学変化を起こしている瞬間です。そば打ちは、ただ粉を麺にする作業ではなく、香りをつくり出す化学実験でもあったわけです。
同書より転載 拡大画像表示
そばの香りを決める化学反応の多くは、酵素反応です。酵素は生物が持つ触媒で、特定の化学反応を加速させる役割を持っています。ソバの実のなかにはリパーゼ、ペルオキシダーゼなど複数の酵素が含まれており、それぞれが脂質の分解、酸化反応の促進などを担っています。
水回しで水を加えた瞬間、これらの酵素が一斉に活動を始める。乾いた状態では休んでいた酵素が、水を得て目覚めるのです。
生地を寝かせている間に酵素反応が進み、香気成分が増加する。急いで延して切るよりも、時間をかけたほうが香りが豊かになることがある。
「三たて」の「打ちたて」が必ずしもベストではない可能性を示す、興味深い事実です。
「こうすればうまくなる」を
知っていた職人
そばの香りのメカニズムを知ると、「おいしさ」の本質が見えてきます。
そばのおいしさは、単に舌で感じる味だけでは成立しない。香りが加わることではじめて「風味」として完成する。そして香りは、化学反応のタイミングと条件に左右される。製粉のときの熱、水回しのときの酵素反応、熟成の度合い。すべてが香りに収斂(しゅうれん)します。
「茹でたて」についても一言。
『ビジネスエリートのための 教養としての蕎麦』(井上直人、あさ出版)
茹でたてのそばが最善であることに異論は少ないでしょう。そばは茹であがってから時間が経つと水分を吸って膨張し、食感がだれていきます。かけそばの場合、つゆに浸かった状態で時間が経つとさらにのびやすい。
「茹でたて」は三たてのなかでもっとも異論のない原則と言えます。
そばの「おいしさ」は、化学の言葉で語ることができる。
しかし、その化学的な仕組みのすべてを理解したうえでそばを打っている職人は、ほとんどいないでしょう。
科学が解明する前に、職人たちは経験と勘で「こうすればうまくなる」ということを知っていた。長い経験の蓄積が現代科学を先取りしていた。
そばに限らず、日本の食文化にはこうした例が数多くあるのです。







