そして、そばを箸で持ち上げたら、鼻を近づけて香りを嗅いでみましょう。

 そばの香りは揮発性のガスですから、口に入れる前に鼻で感じることができます。

 果実のような香り、草のような香り、ナッツのような香り。三つの香り要素が調和しているかどうか、鼻で確かめてみてください。

 品種や製粉方法、そば粉の配合によって、香りのバランスは異なります。

 同じ店でも、仕入れるそば粉が変われば香りが変わる。

 その微妙な違いを感じ取れるようになったら、そば通の仲間入りです。

そばは「すする」という
食べ方に意味がある

 さて、そばのつゆは、それ自体がひとつの芸術作品と言えるほど奥深いものです。

 つゆはかえし(編集部注/醤油、みりん、砂糖を混ぜて作った合わせ調味料)と出汁の組み合わせで成り立っています。その配合は店ごとにまったく異なり、門外不出のレシピを代々守り続けている老舗も珍しくありません。つゆの味はそば屋の個性そのものです。

 ところで、そばを食べるときの「すする」という動作にも意味があります。

 そばを勢いよくすすることで、空気と一緒にそばが口に入る。すると口中香(こうちゅうか/著者注:口に入れた食べものの香り成分が喉から鼻腔に抜ける風味)が増幅され、風味をより強く感じることができます。

 ワインのテイスティングで、口に含んだあとに空気を吸い込むのと同じ原理です。

 そばをすする文化は、形式的な作法ではなく、風味を最大化するための合理的な食べ方だったわけです。

 海外から来た方がそば屋で驚くのは、この「すする」音でしょう。

 西洋のテーブルマナーでは音を立てて食べるのは行儀が悪いとされますが、日本のそば文化ではむしろすすることが推奨されてきました。

 これは礼儀の問題ではなく、風味を味わうための技法であったことが、口中香の理論で裏づけられています。そばの食べ方そのものに、先人の知恵が宿っていたわけです。

 さらに、東アジアでは水流の音=生命の源泉であり、決してマナー違反ではなく、むしろ「自然への畏敬の念」なのです。