提督になったのは軍艦奉行の木村喜毅である。艦長には、軍艦操練所の教授方頭取であった勝海舟が、えらばれている。

福沢諭吉がおどろいた
高級絨毯を土足で歩く習慣

 また、この船には、あとで慶応義塾の創設者となる福沢諭吉も乗船した。

 当時の福沢は、1年3カ月前に大阪から江戸へきたばかりである。幕府にさしたるつてはない。そんな福沢が、どうして幕府海軍の船にもぐりこめたのか。

 福沢は蘭学をまなんでいる。その学縁をつうじ、江戸でも桂川家へ出入りをすることができた。桂川は蘭学を家業とする幕府の侍医である。福沢は同家をとおして、提督の木村を紹介してもらう。そして、木村の従者になりおおせた。いろいろ、手はつくしたようである。それだけ、洋行には情熱をもっていたということか。

 さて、一行はサンフランシスコで、かなりりっぱなホテルに宿泊した。その見事さを、福沢は絨氈のあざやかさでしめしている。日本では、たいそう贅沢な者でも小物入れにするくらいが関の山となる。そういうレベルの布地でできた絨氈が、ホテルでは床にしきつめられていた、と。

 だが、福沢のおどろきは、そこだけにとどまらない。絨氈の上を歩く現地人の足元にも、衝撃をうけた。彼の自伝には、こうある。

「日本人は大小を挟して穿物は麻裏草履を穿いている。ソレで、ホテルに案内されて行ってみると、絨氈が敷き詰めてある(中略)その上を靴で歩くとは、さてさて途方もないことだと実に驚いた。けれどもアメリカ人が往来を歩いた靴のままで颯々と上がるから、此方も麻裏草履でその上に上がった」(『新訂福翁自伝』1978年)

 こんなにみごとな絨氈の上を、こちらの連中は土足で歩くのか。そのことに、福沢は胆をつぶしている。

 西洋人が屋内で靴をはくことは、あらかじめ知っていたかもしれない。たとえ知らなくても、サンフランシスコへつく前に、ハワイの宿で気づいたはずである。じっさい、ポーハタン号の随員であった玉虫左太夫が書いている。この宿では、「靴シテ出入ス」、と(「航米日録」『日本思想大系六六』1974年)。

 土足で宿にあがるこの光景を、福沢もハワイで実見したにちがいない。だが、ハワイの宿では、さしたる反応をしめさなかった。福沢が驚愕したのは、後日にサンフランシスコで見たホテルの光景なのである。やはり、床にしかれた絨氈の豪華さが、福沢をびっくりさせたのだろう。