蘭学を学んだ知識人・福沢諭吉が
土足文化を新鮮にうけとめた理由
いっぱんに、蘭学知のある日本人は西洋の先端技術におどろかなかったと、言われている。原理的なことは、たいてい蘭書をつうじまなんできた。蒸気機関などに関しても、理屈はわきまえていたとされる。
だが、生活風俗のちがいについては、彼らもほとんど勉強をしていない。そもそも、まなぶにあたいするとは、思ってこなかった。高級な絨氈の上を土足で歩く現地人の姿は、蘭学の秀才も新鮮にうけとめたはずである。
福沢諭吉は、大阪で蘭学を身につけた。緒方洪庵がひらいた適塾で、それをまなんでいる。塾生の多くは学問にいちずで、あまり身なりはかまわなかったらしい。食事の作法も、ほとんど気にかけなかったという。
夏のあつい日に、塾生たちは、しばしば裸体になった。襦袢のみならず、褌さえしめない全裸ですごしている。ただ、食事の時と蘭書講読のさいだけは、裸身の上にかんたんな衣類をはおった。そうのべつつ、福沢は塾内の食事風景を回想する。不作法のきわみとして。
「食事の時には迚(とても)も坐って食うなんということは出来た話でない。足も踏み立てられぬ板敷だから、みな上草履を穿いて立って食う」(前掲『新訂福翁自伝』)
立ちぐいであった。しかも、板敷の上で草履をはいていたという。緒方の塾生たちは、なんと行儀が悪かったことかという回想に、ここはなっている。だが、彼らも下足で室内にあがったわけではない。「上草履」というから、上履きをはいていたことになる。それでも、板の間で履き物をはいた自分たちは礼儀知らずだったと、書きとめた。
屋内で草履をはくのは、外出用のそれでなくても、不作法である。福沢はそう考えていたらしい。サンフランシスコであじわった驚異のほどが、しのばれよう。
日本人使節団はホテルで
椅子を片付け平座した
くりかえすが、咸臨丸は護衛艦である。使節の本隊は、アメリカの軍艦、ポーハタン号で海をわたった。その正使は新見正興、そして副使は村垣範正がつとめている。
今、紹介した村垣に『遣米使日記』という書き物がある。使節一行の旅程を、きちょうめんにしるした記録である。これは、幕府の役人がアメリカで遭遇したできごとをうかがう、好個の文献になっている。
1860年5月15日の記事に目をむけよう。つまり、万延元年閏3月25日のくだりを、日記の記述は和暦だが、ひいておく。
この日、彼らはワシントンのウィラードホテルに投宿した。村垣にあてがわれたのは、15畳ほどの部屋である。アメリカの通例で、花模様の絨氈がしかれていたらしい。仲間との相部屋であったという。部屋のそんな様子を紹介しつつ、村垣は室内の家具などを配置しなおしたと書いている。つぎのように。
『日本人はなぜ家で靴を脱ぐのか』(井上章一、新潮社)
「椅子あれともこれは片付て褥(しとね)を敷て平座す彼の人には入さるよふに成しととり々々打寄てけふの道すからの物語なとせしに見るもの皆奇なれは笑に堪かぬる事も有けり」(『遣外使節日記纂輯第一』1928年)
椅子を、おそらくテーブルも、部屋の隅へよせてしまう。さらに「褥(しとね、編集部注/人が座ったり寝たりするためのしき物や寝具)」を、これは座布団だろうか、床にしいた。あるいは、敷き布団をもちこんでいたのかもしれない。いずれにせよ、そこへ「平座」ですわっている。楽な姿勢、たぶんあぐらをかいて、腰をおとしたのだろう。
もちろん、彼らは椅子とテーブルの食事もこなしている。アメリカの立礼につきあいもした。だが、ホテルの部屋へもどれば、日本風にすごしたいと思ったろう。アメリカ流の家具は脇へよせ、「平座」で談笑し、時をすごしたのである。







