ただ、その励ましには、己の欲望がひそんでいることを自覚すべきだと言うのである。その自覚があれば、患者自身の苦しみを無視して励ますことに、少しはブレーキがかかると思うからだ。
がんの治療を受けている患者が、治療をやめたいと言ったときには、やはり本人の希望を優先すべきだと私は思う。妻に対しても、私は治療を続けるのも、やめるのも本人次第、命は妻のものなのだからと思って、何も言わなかったし、これからも言うつもりはない。そうすることが、個人の尊重であり、ほんとうに相手のことを思いやることであるはずだから。
本人の知る権利と家族の思いの
どちらを尊重すべきか
現在では考えられないことだが、私が外科医をしていた40年ほど前は、患者にがんを告知してはならないとされていた。がんは死の宣告も同然だったので、患者にショックを与えるべきではないという考えからだ。つまり、患者への思いやりだったわけだ。それは日本医療の優しさとも言えるし、事なかれ主義、問題の先送り体質、臭いものにはフタの表れとも言える。
欧米の合理主義からすれば、まったく理解に苦しむ対応らしく、私が外務省の勤務でウィーンに滞在していたとき、現地の医者に聞くと、口を揃えて「信じられない」と言われた。
がんかどうかを調べるために検査をするのに、がんの場合は事実を告げないのなら、そもそも検査をする意味がないというわけだ。
「でも、がんだと告げたら、ショックを受ける患者さんも多いのではないですか」と、私が聞くと、「それは仕方がない。がんであるのは事実なのだから」と、どの医者も肩をすくめるようにして答えた。事実を事実として受け止める強さが、医者にも患者にも備わっているようだった。
日本でもさすがに1990年代から、患者にがんの告知をするようになったが、今でも高齢の親にはがんの告知をしないでくれと頼む家族がいる。がんだと告げると、悲しんだり落ち込んだりするのが、かわいそうだという理由だ。
『欲張らない死に方 賢く老いるヒント』(久坂部 羊、筑摩書房)
そんなとき、医者は困る。欧米なら当然、本人の知る権利を優先して、がんを告知するだろう。家族が「言わないで」と言うのは、本人が告知に耐えられないだろうと勝手に判断しているからで、欧米でなら本人の知る権利を侵害していると受け止められる。
だからと言って、家族の意向を無視して告知をすれば、高齢の親がどういう反応を示すかわからない。家族が危惧した通り、落ち込んで食欲をなくし、寿命を縮めたりしたら、激しい抗議をうけるだろう。
だから、たいていは家族の意向が尊重される。親につらい思いをさせたくないという気持ちは善意だろうが、やはりそこにも欲望がひそんでいる。
本人の知る権利と家族の思いのどちらを尊重すべきか。
建前としては個人を尊重すべしと言いながら、結局、日本ではまだまだ本人の知る権利は擁護されているとは言いがたい。







