3月30日、東郷と盈子は、東郷が修子と暮らしていた家で心中を図った。東郷はベッドに横たわる盈子の首をメスで切り、自分の首も切ったが死にきれず、ガス栓を開いた。しかし、外出から戻ってきた女中に発見されて大森の水神下病院に搬送され、2人とも一命を取り止めた。

千代と東郷青児の
再会をめぐる謎

 この事件が起きた年の9月、改造社(編集部注:1919年(大正8年)に山本実彦が創業した日本の出版社)から谷崎潤一郎ら名だたる作家の短編集が刊行され、女性作家としてただ1人、『新撰宇野千代短編集』が編まれた。千代の文学的評価が高まる中、12月から『報知新聞』で「罌粟はなぜ紅い」の連載が始まった。

 千代は複数の自伝的作品の中で東郷と出会った経緯を、作品の中にガス中毒死の場面を描くため、取材目的で東郷に連絡した、あるいは酒場で偶然会ったなどと曖昧に記しているが、燕楽軒(編集部注:大正時代に東京都文京区本郷に実在した有名な西洋料理店。文豪や編集者のたまり場で、千代は18日間ほどウェイトレスとして働いていた)で接点があった可能性もある。

 ガス中毒死の場面が掲載されたのは1930(昭和5)年3月頃なので、おそらく千代と東郷は心中未遂事件後間もなく、千代と親しい作家・三宅やす子を介して再会したのではないか。

 その背景には、画家で東郷の友人でもある阿部金剛と、やす子の娘・艶子の婚約があり、以後、千代と東郷は断続的に会い、東郷から事件について聞いた可能性がある。千代が「取材のため」と回想したのは、この時期の東郷との交流を象徴的に表現したものと思われる。

 1930(昭和5)年4月、2人は世田谷区山崎(現・世田谷区代沢)で一緒に暮らし始めた。そして同年8月、千代と尾﨑(編集部注:小説家の尾﨑士郎)の離婚が成立した。

世田谷区淡島で
東郷と同棲生活開始

宇野千代の言葉
「『色ざんげ』は、或る巴里帰りの若い画家の情死事件を書いたものである。その話を青児から聞くことがあって、それを自分流に一つの物語にした」(『宇野千代全集』第3巻より)

 千代と東郷の暮らしは、互いの過去を聞こうとはせず、今後のことを話し合うこともないものだった。