千代は『三宅やす子全集』(中央公論社)の監修に加わり、後に多磨霊園に建てられた三宅の墓は東郷が設計し、墓石には千代の筆で「人として母として作家として偉大なる女性三宅やす子ここに眠る」と刻まれた。
同年3月24日、梶井基次郎が千代に知らせることなく大阪で病没した。中谷孝雄が預かった遺稿や手紙は『梶井基次郎全集』(六峰書房)として出版されたが、千代に関するものは刊行委員の川端康成によって除外された。当時、実質的に東郷の妻であった千代への配慮だったとされる。
そして1933(昭和8)年、千代は『中央公論』9月号から1935(昭和10)年3月号まで、東郷からの聞き書きを元に、4回にわたって「色ざんげ」を断続的に発表した。
外国帰りの画家・湯浅譲二が自身の女性遍歴を振り返る告白の物語が、行替えの少ない文字の詰まった体裁で緊迫感を持って進んでいく。読者の多くは数年前、世間を騒がせた東郷青児のことを想起したはずである。
「この長編の成功の原因は、これを書いた私の力よりも、この話をしてくれた東郷の話術の巧みさが、その大部分の魅力になってゐたからです」(『私の文学的回想記』より)
千代は「色ざんげ」の執筆中に四谷区大番町の家を借りて仕事場とする一方、東郷が心中未遂事件を起こした盈子と再会してから、2人の関係は次第に冷めていった。
『宇野千代 その言葉と人生』(四條たか子 宝島社)
事件後に入院・療養を経て結婚した盈子には娘が生まれていたが、千代の足が世田谷から遠のく間に、白亜の家は盈子好みの家具や調度で埋め尽くされていった。
東郷と盈子は1934(昭和9)年秋から同居を始め、翌年5月に、盈子の離婚成立を待って結婚した。2人の間に生まれた娘・たまみは洋画家、歌手として活躍し、後に千代の出版記念会で歌を歌ったのを機に千代と親しく付き合うようになった。
「私は自分に少しの文句を言ふことも許されないところまで来て、東郷があの女と一緒になったと言ふことで、東郷を憎みました。私が本気で人を憎んだのはこれが始めてです」(『私の文学的回想記』より)
1935(昭和10)年4月に中央公論社から刊行された『色ざんげ』は、この時期の千代の代表作のひとつとなった。







