当時の東郷は画家としては不遇の時期にあり、1930(昭和5)年にジャン・コクトーの『恐るべき子供たち』、翌年にモーリス・デコブラ原作の『恋愛株式会社』の翻訳本を、自らの挿絵と装幀により白水社から刊行した。

 東郷は仕事が好きだった。そして画家の仕事を全く知らなかった千代は、絵を描いている東郷の姿を見るのが好きだった。

「東郷青児が画を描きさえすれば、金は湯水のように湧いて出る。そう思っていたのに、そうは行かなかった。東郷は毎日毎日、偽札を作るように画を描き、私はそれを風呂敷に包んで売り歩く。考えようによっては、信じられないような生活が続いた」(『生きて行く私』より)

 人気作家の千代が仁科会の会員である東郷との暮らしを「桁外れの貧しさ」と書いても首をかしげたくなるが、それが新居を建てるためならば納得できる。2人は淡島(世田谷区代沢)に土地を借り、新たに家を建てた。

 三宅やす子の家を建てた有名な建築家に頼んで設計してもらった家は、コルビュジエ風のハイカラな白亜の建物だった。中2階に広いアトリエがあり、南に面した円形のサロンは友人たちがダンスや麻雀に興じる場ともなった。広い芝生の庭では東郷の長男・志馬が犬と戯れ、同居する千代の弟の光雄が遊び相手になった。

 建築費の支払いが滞り、何度か差し押さえにあったものの、東郷の絵を売りさばいてしのいだ。

「このとき、金にさへなれば、私はどんな小説でも書いたに違ひありません。東郷が絵を描き、私がそれを売り歩く。この期間、およそ2年か3年の間、私は自分の仕事である、ものを書くといふことさへも止めてゐたのではないかと思ひます」(『私の文学的回想記』より)

 家を新築した1931(昭和6)年の千代の代表作は、東郷の装幀と挿絵により、「犯罪」「びい玉」など15編の小品を収めた『大人の絵本』(白水社)である。

親しい人の死を経て
『色ざんげ』を連載

 千代の親友、三宅やす子が心臓麻痺で急逝したのは1932(昭和7)年1月18日。まだ41歳の若さだった。