佐野は大分県杵築町の出身で、1910年にストライキ事件で地元の杵築中学を中退し、東京の麻布中学に編入する。第七高等学校(鹿児島)を経て1914年に東京帝国大学法科大学に入学し、1917年には大学院へ進んでいる。年譜(前掲)には「矢作博士について農政学を専攻」とあるが、矢作栄蔵は経済学者で、東大で経済学部が独立(1919)したあと、1921年から31年まで経済学部長までつとめている。

 1918年には東大新人会に参加している。新人会は学生運動の団体で、マルクス経済学も勉強していた。大学院修了後の1919年に満鉄東亜経済調査局に入社している。翌20年に退社して早稲田大学講師として赴任したというわけだ。東海林の6歳上で、このとき28歳だった。

 佐野はマルクス経済学を講じるとともに、東大新人会と同様、早稲田の学生運動団体である建設者同盟を指導し始める。また、1922年には日本共産党の結党に参加し、23年には中央委員に就任する。つまり、戦前日本の革命運動の主役だったのである。

 東海林太郎は佐野学を指導教授として勉強を進めていたようだ。佐野は、東海林は経済学者を目指しているとみていた。東海林は音楽を忘れるために猛勉強した、と述懐している(東海林太郎、前掲書、1969)。佐野のもとでマルクス経済学を勉強していても、佐野が実践していた学生運動や革命運動にはまったく参加していない。

 佐野は1922年か23年に東海林を伴ってドイツへ行くつまりだったらしいが、23年6月に第1次共産党事件(共産党員検挙)によって地下へもぐり、北京、そしてモスクワへ行き、24年6月にはコミンテルン(第3インターナショナル)の大会に出席している。東海林が「でもそのうち、先生はロシアに行っちまいました」と言っているのはこのことである。

満鉄へ入社、調査マンとして7年間

 師匠がモスクワへ行ってしまったあと、研究科を修了して1923年9月1日付で満鉄調査課へ入社している。日付は関東大震災の日だが、入社試験はもちろんその前にあった。ただちに大連の本社に赴任する。

 佐野学も大学院修了後に満鉄東亜経済調査局に足かけ2年勤務しているが、東亜経済調査局は東京にあった。本社の調査課とは別の組織である。

 満鉄は1906年11月に設立されている。資本金は2億円で、1億円は政府が出資している完全な国策会社である。日露戦争(1904-05)によるロシアからの賠償として満州(中国東北部)のロシア利権を引き継ぎ、鉄道を中心とした「植民地経営」のために設立された。初代総裁は後藤新平(1857-1929)だ。