結論から言えば、「集団的自衛権」の行使容認には反対する。それは国のあり方を規定する問題であるにもかかわらず、政府のやり方は民主主義の根幹を揺るがすものであるからだ。もし、解釈改憲を強行した場合には、自衛隊員の士気の低下や国民の離反を招くだろう。いま求められているのは、集団的自衛権などの防衛問題のみならず、国としてのあり方を改めて考えることだ。以下その理由を述べてみたい。

民主主義における参加のプロセスを
重んじなければいけない

えぐち・しんたろう
1984年8月生まれ。福岡県出身。編集者・ジャーナリスト、元自衛官。2003年から2006年まで西部方面普通科連隊に在籍。情報・環境・アート・デザイン・テクノロジーなど、ジャンルを超えた様々な分野を横断しながら「未来をつくる編集者」として企画制作やプロデュース活動を行う。ネット選挙解禁に向けて活動したOne Voice Capmaign発起人、オープンデータやオープンガバメントを推進するOpen Knowledge Foundation Japan、Code for Japanのメンバーとしても活動。著書に『パブリック シフトネット選挙から始まる「私たち」の政治』『社会をパブリックシフトするために?2013参院選?ネット選挙の課題と未来』(いずれもカドカワ・ミニッツブック)など。

 たとえ憲法改正ではなく解釈改憲とはいえ、国のあり方を規定する憲法に対する認識を問うものに対して、主権者である国民の共感なしに行うのは、そもそも国民主権の原理に反する行為である。

 私的有識者懇談会を通じて集団的自衛権の行使を容認し、国会で十分な議論することなく、閣議決定を通じて政府方針としようとするというプロセスは、民主主義の根幹を揺るがす。

 透明性や情報公開という世界的な流れに逆向した動きは、世界の潮流からも外れている。国民全体に関わるような問題や、世論として反対の多い意見に対しては、真剣な対話を通して納得のいく答えを漸進的に進めていくことが民主主義である。それをなくした政治のあり方は、あってはならない。

 過去の政権が積み重ねてきた解釈を否定し、解釈によっていかようにも運用が可能であるならば、なんのための憲法か。過去60年間の内閣の行為を否定しようとするには、あまりに時間をかけなすぎる。

 もちろん、議論を通じ、投票などによる国民の理解も得られた上で、運用ルールに対してもより明確に定めることができれば、集団的自衛権の行使は可能かもしれない。しかし、現在のこの解釈改憲に対するプロセスは、行使容認の内容がロジックにおいて理解できる部分が仮にあったとしても、納得のいく答えではない。なぜなら、これはロジックの話ではなく民主主義におけるプロセスの話だからだ。政治がこれを無視して、強行的に突き進んでしまっては、なんのための政治か、なんのための民主主義なのか。