1989年末の大納会で日経平均株価が3万8915円87銭を記録し、国内はすっかり浮き足立ち、空前の好景気に沸いていました。しかし、株価はそれをピークに下落が続き、さらには1991年以降の地価下落を経て急激に景気は後退。邦銀は巨額の不良債権処理に苦しむこととなりました。バブル時、一斉に海外へ進出した邦銀でしたが市場感覚に乏しく、ほとんど成功しませんでした。海外戦略は今なお課題となっています。
1989年12月29日
日本株の絶頂が転落の始まり
証券取引所の年初の取引日は「大発会」、年末最終取引日は「大納会」と呼ばれます。土日に重ならなければ、1月4日が大発会で、12月30日が大納会というのが、日本の証券界の慣習です。1989年の大納会は、12月30日が土曜日だったために、前日の29日でした。その日、日経平均株価は3万8915円87銭という年初来高値で取引を終えました。
年末年始のメディアは、1990年以降どこまで株価は上昇するかという話題であふれ、日経平均4万円で飽き足らない楽観論者は、4万5000円、5万円といった予想を繰り出すなど、青天井の強気見通しが市場を闊歩していました。ある大手証券会社は「長期的な目標は8万円台」という見通しを投資家に示していた、とも聞きます。
しかし、日経平均はこの日を絶頂として翌年の大発会以降は下落を続けることになりました。その後25年間経過したいまも、当時の水準を大幅に下回ったままです。どんなに強気の人でも、当時の最高値を破る日が近々やって来るとは言わないでしょう。日本のバブル崩壊は、まさに歴史に残る出来事でした。
株式市場のユーフォリア(熱狂的陶酔)の終焉は、正月早々に突然訪れました。それは、証券会社や機関投資家、個人投資家だけでなく、銀行にも大きな衝撃を与えることとなりました。前述のとおり当時の銀行は、政策投資といわれる企業の持ち合い株だけでなく、相場観に基づく積極的な株式投資にも乗り出していたからです。
当時日本の銀行が利用していたのは、前章で述べた「特金」と呼ばれる信託銀行の「特定金銭信託」でした。これは、銀行が委託者として金銭を受託者である信託銀行に預け、運用指図人がその金銭を運用する仕組みですが、当然ながらこの場合の運用を指図するのは委託者でもある銀行です。
このスキームをとる目的は、銀行本体で保有する低い簿価の株式と分離して株式投資を行うことにありました。たとえば戦後に1株100円で購入していた株式が1万円に上昇していた場合、本体で新たに1株購入すると簿価が5050円に上昇し、仮に1万1000円で1株売却したとすれば、売買益は1000円ではなく5950円となります。これでは余計な税金を払うことになるうえ、含み益も減少してしまいます。
こうした不都合を避けるために利用された「特金」は、金融業界でバブルの代名詞にもなりました。もちろん、銀行や機関投資家だけでなく、事業法人も余剰資金や借入れ資金で、この「特金」や信託銀行に運用を委託する「ファントラ(ファンド・トラスト)」と呼ばれた指定金外信託を利用した財テクに走るところが多くありました。
日本全土に株価上昇ムードが蔓延する中で、銀行は「特金」における株式投資で収益を伸ばし、さらに本業でも企業への不動産担保融資を拡大していったのです。株価とともに不動産の価値も永遠に上がり続けるという神話が形成され、特に横並び意識の強い銀行業界は、不動産を担保にした貸出競争の渦の中に巻き込まれていきました。