1990年以降に株価が下落に転じたことで、銀行では株式投資による損失が目立ちはじめます。事業法人でも、ヤクルトや阪和興業など、バブル崩壊後に巨額損失を発表した例は数多く、また最近になって当時の財テク失敗が露呈したオリンパスのような例もありました。 

 もっとも、株価は1989年12月29日にピークをつけたのに対し、不動産市場では1990年に入ってもまだ上昇機運が廃れていませんでした。株価はいずれ落ち着いて持ち直すという期待感も残っていたため、不動産への期待値は根強く残っていたのです。銀行の営業部門はまだまだ強気でした。

1980年代の栄光と、1990年代の挫折

 前回、プラザ合意を採り上げた際に、急激な円高の下で日銀による緩和政策が資産バブルに火を着けたことに触れました。1989年末の株価のピークは、ついにその最終局面がきたことを知らせる日暮れの鐘でした。しかし、緩和局面において融資や利ザヤが拡大する順風を受けて収益性を伸ばしてきた銀行にとっては、まだバブルの余韻が残っていたのです。

 1980年代は、銀行貸出が大きく伸びた時期です。金融緩和を背景として、1970年代に高度成長から安定成長へシフトする際に縮小していた企業の借り入れが増加に転じたことや、金融の自由化が加速しはじめたためでした。

 それまで金利規制、業際規制、為替実需原則、国際資本規制など規制色の強かった銀行業に対し、新型定期預金など新商品の導入や国債の窓口販売などの新業務が解禁され、金利の自由化が進展したほか、公共債のディーリングも開始されました。銀行も市場競争の時代に入ったのです。

 また“円の国際化”という看板が掲げられ、ユーロ円取引の自由化や東京オフショア市場の創設などが進んだのもこの時期です。企業の海外進出が活発化し、銀行もその後を追いかけるようにニューヨークへロンドンへと、相次いで海外拠点を構えることになり、豊富な資金力をベースに海外での融資も積極化させていきました。

 こうした変化は、当時流行った「2つのコクサイ化」(国債流通市場の拡大と、国際取引の増加)というキャッチフレーズに代表されるように、邦銀が「市場」と「海外」という新たな両輪のもとで、新たな収益源を模索する契機となりました。この時期が、海外での邦銀の存在感が高まった全盛期でした。

 1980年代後半以降のアメリカの大手銀行は、3つのLと言われる不動産関連融資(Land)、発展途上国(Least Developed Country)、レバレッジド・ローン(Leveraged Buyout)という融資問題の処理に追われ、体力を失っていきました。その隙間を埋めるように、外為専門銀行として海外業務に特化していた東京銀行だけでなく、他の都市銀行や長信銀、信託銀行そして大手地方銀行までもが、海外に積極的に進出するようになったのです。

 余談ですが、このように海外市場で邦銀の貸出増加があまりに目立つようになったことは、その後、イギリスとアメリカの当局が主導するバーゼル委員会が、銀行の自己資本比率規制を導入するひとつの契機になりました。