私に課せられた3つの課題
【課題1】廃棄物の委託探しで全国行脚

 こうして2002年、私が30歳のときに「取締役社長」という肩書きをもらい、1年間の「お試し社長試験」が始まったのです。

 このとき私の前には3つの難題がありました。

 最初は、廃棄物の委託先探しです。
 当時、うちにあったダイオキシン対策炉からはダイオキシンは出ませんでしたが、日増しに反対運動が激化する中で、父は「焼却をやめる」決断をしました。

 すると、それまで受け入れていた廃棄物を処分できません。

 私は、全国の産廃業者が載っている書籍を見て、焼却できる業者をピックアップ。電話でアポを取って営業をかけました。

 先方の社長は、私の名刺を見た途端、

「あんた、ホントに社長なの?」

 とびっくりしていました。

 若い女性が現れただけでも想定外なのに、その肩書きが「社長」なのですから驚くのも当然かもしれません。

 結果、約20社を訪問し、11社と取引することができ、「お試し社長」の初仕事はなんとかうまくいきました。

【課題2】全天候型独立総合プラントの導入

 “脱・産廃屋”という目標を掲げた私は、

「なんとしても会社の見た目を変えたい」

 と思いました。

 当時の石坂産業の建物は、工事現場さながらのイメージで、お世辞にもきれいとは言えません。
 そこで、産廃業者のイメージを払拭した清潔感のあるプラントをつくろうと決意しました。

 それは、すべての設備が建屋の中に入った「全天候型プラント」で、外見がパン工場のようにしたいと思いました。

 父からは
「反対運動が起きているいまの状態で、県が開発許可を出すはずがない」
 と言われました。

 しかし、私は“脱・産廃屋”を目指すには「絶対新型プラントが必要」と考え、役所に出向いて開発許可の申請を直談判したのです。

「ダイオキシン報道でバッシングを受けてしまい、いま会社は生きるか死ぬかの状況なんです。今後、地域に根づいて事業を続けていくためには、全天候型プラントが必要だと考えています。どうか、そのための開発許可をお願いします!」

役所への直談判と知事の鶴の一声

 しかし、担当課長は詳しく話を聞くそぶりも見せずに、

「おたくは、いま問題の産廃屋、石坂さんでしょ? 許可を出したら俺のクビまで飛んじゃう。産廃屋に出す許可はないね」

 と言い捨てました。
 その瞬間、私は一瞬、耳を疑いました。
 行政の担当者が詳しい相談内容も聞かず、窓口で門前払いするなんて!

 うちが産廃会社というだけで、「おまえらには許可は出せないよ」というのは明らかに業界差別!

 しかし、この様子を見ていた別の担当者が手を差し伸べてくれました。
 過去のさまざまな案件を調べ、どんな方法なら許可がおりるか、教えてくれたのです。

 その結果、2002年に開発許可を得ることができました。
 2001年に焼却をやめると決めてから、わずか1年で開発許可をもらえたことになります。

 そのときの都市計画審議会(開発許可を審議する会議)は異例の長さでした。普通なら一案件に30分もかからないのに、当社に関しては2時間かかったそうです。

 “産廃銀座”と呼ばれる地域に産廃処理施設を拡張させていいのかと、役所の中でも反対意見が大きかったのでしょう。

 しかし、最後は、上田清司埼玉県知事がこう言ってくれたそうです。

「従前にある施設が環境整備をしようとしているのだから、業務の拡大ではないでしょう。許可をおろしてもいいんじゃないですか」

 この鶴の一声で一気に風向きが変わりました。
 こうして父が「まず無理」と言った全天候型プラントの開発許可がおりたのです。