これではテレビのワイドショー以下だ

 ……とここまで読んで、作者は思わずうーんと首をひねる。柿の木から熟した柿の実が消えた。そして傍には遺体。それを見て「じゃあ、猿のやつが殺して、柿を取っていったのだな」はちょっと乱暴すぎる。確かに猿は木登りが得意だけれど、それは状況証拠の一つだ。少なくともこれで立証できるはずがない。無罪推定原則が見事にない。平成のテレビのワイドショー以下だ。

 まあもちろん、この時代の日本はまだ近代司法国家ではないだろうし、お伽噺に目くじら立てるのもどうかと思う。でもお伽噺だからこそ子どもが読む。こうした決めつけかたは決して良い影響を与えない。確かに猿はこの近辺では札付きのワルだったし、悪い仲間もたくさんいた。従弟の知り合いの舎兄の友人は高崎山組の若頭なのだ。でも(というかだからこそ)決めつけは問題だ。多くの冤罪事件は、そうした思い込みで起きるのだから。ぶつぶつ。まあいいや。話を戻す。

 とにかく猿に父(母かな。原典を読んでもどちらなのかわからない)を殺された(と思い込んだ)子どもの蟹は、すぐに仲の良い栗に連絡を取った。あわてて家にやってきた栗は、白い布を顔にかけられた蟹の遺体を見て、「ああ。これはひどい」と嘆息した。

「犯人は猿です。仇をとってください」
 「私が?」
 「私の家の敷地内にある財産が強奪されて、さらに人的被害も出たのです」
 「人じゃないけれど」
 「とにかくこれは明確な侵略です。栗さんは仇を討つのを手伝ってくれますよね」
 「うーん」

 栗は考え込んだ。というのは、栗は蟹がこの六年間、柿を脅し続けてきたことを知っていたのだ。それはあまりにもひどい扱いだった。

「そうはいってもなあ」
 「私がどこかの国に攻撃を受けたときは一緒に戦うって約束しましたよね」
 「国じゃないけどね。猿と柿の言い分も聞いたほうがいい」
 「猿はともかく柿がしゃべるのですか」
 「じゃあなんで私がしゃべるのさ」

 言われてみるとそうだ。桃栗三年柿八年。栗の縁戚関係は、少なくとも蟹よりは柿にずっと近い。でも興奮した子どもの蟹は、「約束ですよ。これは自衛権を行使すべき状況じゃないですか」とまくしたてる。

「まあ口の泡を拭きなよ。仕方がない。何とかしようか。でも猿は手強いよ。蟹と栗だけでは返り討ちに遭う恐れがある」
 「だから集団的な自衛権を行使すべきです」
 「というと?」
 「ご近所を巻き込むのです」
 「でもそれは……」
 「このままにしておいては、やがて猿は私たちすべてにとって危険な存在になります。今のうちに叩くべきです」