震災当日、バスはこの坂を下りて海岸に向かった

 実は、一審の判決が出る前から、西城さんの心に変化が生じていた。夫婦が現在2歳となる次男を授かったとき、西城さんは江津子さんに約束した。

「一審でこちらが勝とうが負けようが、それで裁判を終える。そこから先はない、と女房には話したの。あの日から、はる(春音さん)のためには俺なりに一生懸命やったつもり……。だけど、残された子や女房のため

バスが海岸に向かって走った道

に、俺は何ができたのか。父親として、夫として、男として、この数年間は残された家族のそばにいなきゃいけないときだったんだ。でも、頭の中は裁判でいっぱい。他のことに気が回らないんだよね。何をしていても、裁判のことがぽっぽっと浮かんでくるわけ」

 江津子さんによると、西城さんは外出中も電話をかけてきて、裁判の資料などについて話をすることがあったという。

「主人は、もともと一生懸命な人だから……。裁判でも、真剣なんだなと思っていた。色々なことを考えているんだなって。震災後は、はるのこともだけど、子どもたちのことをもっと真剣に考えてくれているように感じた」

残された子や女房のために
俺は何ができたのか?

子どもたちの遺体がみつかった場所(日和山のふもと付近)

 西城さんは、悶々とした思いを抱くようになる。このまま裁判を続けるべきか、それとも終えるべきか。裁判を始めてから3年目の2013年に入った頃から、その思いは次第に強くなった。西城さんは、「今を生きるってことを、真剣に考えるようになった」と数回繰り返す。

「もう、(裁判で争うことと家族を守ることの)両立はできないと思った……。俺ももう若くはないし、娘がいなくなって、人生には限りがあるって、つくづく感じるの。当然、仕事があるしね。震災後の生活では、裁判に関することの比率が大きすぎるんだよね。残された子どもたちを遊びに連れていくこともできない。

 裁判に関する資料は、他の遺族と手分けしてつくるわけ。たとえば、他の遺族の家で何時間も話し合い、うちに戻り、女房と深夜まで話し合う」