「タブー」を突いたら、どう反応するか?

 キャメロンは、自分が首相として引き継ぐことになる最大の問題は、深刻な経済不況だと言った。イギリスは他国と同じで、ひどい景気後退から抜け出していない。年金生活者から学生、業界の大物に至るまで、国中が陰気なムードに包まれていて、国の莫大な借金は増え続けている。就任したらすぐに大規模な支出削減に着手しなくてはと、彼は言い切った。

 ただし、いくつかの譲れない大切な権利は、どんなことをしてでも守りますよ、とキャメロンは言いそえた。

 たとえば何です? とぼくたちはたずねた。

「そりゃ、国民健康保険(NHS)ですよ」と彼は誇りで目をキラキラさせながら言った。

 それはそうだろう。イギリスの全国民は、NHSのもとで「ゆりかごから墓場まで」、すべての医療を原則無料で利用できる。NHSはこの種の制度としては世界でいちばん古くていちばん規模が大きく、サッカーや干しぶどう入り蒸しケーキと同じくらい、国民の生活に溶け込んでいるのだ。昔イギリスのある蔵相がNHSのことを「イギリス人にとって宗教も同然」と言ったそうだ。これは二重の意味でおもしろい。だってイギリスにはれっきとした国教があるんだから。

 でもひとつ問題がある。イギリスの医療費はここ10年で2倍以上に増え、まだまだ増え続ける見通しなのだ。

 このときぼくたちは知らなかったのだが、キャメロンがNHSに入れ込んでいたのは、悲痛な個人的体験のせいもあった。彼の長男アイヴァンくんは、大田原症候群という珍しい神経疾患をもって生まれた。激しい発作が起きるたび、キャメロン家はNHSの看護師や医師、救急車、病院の世話になったという。

「家族が昼夜を問わずいつもNHSに助けられていると、この制度がどんなに貴重なものかを身にしみて感じます」と彼は保守党の年次大会で述べている。アイヴァンくんは2009年の初め、7歳の誕生日を迎える数ヵ月前に亡くなった。

 だから緊縮財政を掲げる保守党の党首キャメロンが、NHSだけを神聖視するのは、別に驚くことじゃないのだろう。経済危機のあいだでさえ、この制度をいじろうとするのは、政治的には女王陛下のコーギー犬に跳び蹴りを食らわすほど冒涜的な行為だった。

 とはいえ、NHSに現実的な問題がないわけじゃない。国民に生涯無料で無制限に医療を提供するという目的は立派でも、経済効率には問題があった。この点はどうなんですかと、次期首相にできるだけお行儀よく聞いてみた。

 医療制度はとかく感情が絡む問題だから、経済のほかの部分と同じように扱われるべきだということに、なかなか気がつきにくい。

 だがイギリスのような制度では、国民はこと医療に関してだけは、実際のコストが1万円だろうが1000万円だろうが、ほとんどお金を払わずに必要なサービスを受けられるのだ。