岸見 そうそう、『嫌われる勇気』の中にも書いてありますが、例えば10人の人がいたら、1人はどんなことをしてもあなたのことを嫌い、2人はお互いにすべてを受け入れて親友になれる、ほかの7人はどちらでもない、というユダヤ教の教えがあります。はあちゅうさんの場合、自分を嫌う1人には「言わせておけばいいや」という感じですか?

はあちゅう そうですね。もちろん、今でもブログはよく炎上するし傷つきはするんです。でも10年たたかれ続けて打たれ強くなったのか、少なくとも傷ついていないふりをして、「何を言われても自分のやっていることは変えなければいい」という覚悟はできました。そういう意味で、今は“嫌われる勇気”は、そこそこもっているほうだと思います(笑)。

「好き」の反対は「嫌い」
ではなく「無関心」

岸見一郎(きしみ・いちろう)
哲学者。1956年京都生まれ。京都在住。高校生の頃から哲学を志し、大学進学後は先生の自宅にたびたび押しかけては議論をふっかける。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学。専門の哲学(西洋古代哲学、特にプラトン哲学)と並行して、1989年からアドラー心理学を研究。精力的にアドラー心理学や古代哲学の執筆・講演活動、そして精神科医院などで多くの“青年”のカウンセリングを行う。日本アドラー心理学会認定カウンセラー・顧問。訳書にアルフレッド・アドラーの『個人心理学講義』(アルテ)、『人はなぜ神経症になるのか』(アルテ)、著書に『嫌われる勇気』(古賀史健氏との共著、ダイヤモンド社)、『アドラー心理学入門』『アドラー心理学実践入門』(以上、ベストセラーズ)』、『アドラー 人生を生き抜く心理学』(日本放送出版協会)などがある。

岸見 逆に、誰もが自分の言っていることに注目してくれない、逆に自分を嫌う人が全くいなくても、それはそれで困ったことですよ。

はあちゅう そう、私はそれがいちばんイヤです。好きでも嫌いでも、私のことが心のどこかに引っかかっているというのは、ある意味支えになります。

岸見 マザー・テレサも言っているように、愛の反対は無関心。嫌われたとしても、それは、なんらかの意味で関心をもたれている証拠だと思えば、少しは気が楽になるかもしれません。本を出してもブログを書いても、誰にも読んでもらえなかったらつらいですよね。

はあちゅう それに、自分に好意的な身の回りの人だけにメッセージが届いても、それは読まれていないのと一緒。違う考えの人まで届いてやっと、自分の半径5メートルを出たな、という感じがするんです。そのためにもブログでは結構意識して、挑戦的なタイトルをつけていて、それがまた炎上のきっかけになるんですが(笑)。

岸見 はあちゅうさんの本を読んでいても、それは感じましたよ。同意する部分は多いのですが、読んですごく気持ちがいい、という類の本ではない。心がざわざわして突っ込みたくなるようなところがいっぱいあって、だからこそ面白い。

はあちゅう『嫌われる勇気』では、そのざわざわした気持ちを、青年が徹底的に代弁してくれていますね。