自国の防衛軍「自衛隊」の誕生
そしてこの時期は、安保・外交が大きく動いた時期でもあった。朝鮮戦争時、マッカーサーの命令で設置された「警察予備隊」は、もともとは「朝鮮戦争で出兵する米軍の留守番役」として、あくまで警察力補助のために作られた。
しかし、朝鮮戦争が激化し「東アジア=冷戦の最前線」との認識が深まってくると、警察予備隊は次第に重装備化され、今まで受け入れていなかった旧軍人の幹部候補も迎え入れるようになった。
こうしてアメリカ軍の監督下で訓練を受け、アメリカから装備の提供を受けた警察予備隊は、実力部隊7万5000人、自動小銃や迫撃砲、装甲車両に軽戦車なども装備したなかなかの“警察力”となり、その後サンフランシスコ講和条約を受けて、1952年「保安隊」に改組された。こちらは総数10万8000人、名前からも“警察”が消え、よりパワフルな実力組織となった。
そして吉田内閣最終年の1954年、吉田の腹心・池田勇人自由党政調会長とアメリカのウォルター・ロバートソン国務次官補の間で開かれた「池田・ロバートソン会談」で日米相互防衛援助協定(MSA協定)が結ばれ、日本はアメリカから援助を受ける見返りに「自国の防衛力増強」の義務を負うことになった。
それを受けて吉田内閣は「防衛二法」(防衛庁設置法+自衛隊法)を成立させ、ついに我らが「自衛隊」の誕生と相成ったのだ。吉田茂が防衛大学第一回の卒業式で述べた訓示とされる言葉があるが、(実際はもっと砕けた場での発言らしい)そこで吉田は、こんないいことを言っている。
「君たちは自衛隊在職中、決して国民から感謝されたり、歓迎されることなく自衛隊を終わるかもしれない。きっと非難とか誹謗ばかりの一生かもしれない。ご苦労なことだと思う。しかし、自衛隊が国民から歓迎されちやほやされる事態とは、外国から攻撃されて国家存亡のときとか、災害派遣のときとか、国民が困窮し国家が混乱に直面しているときだけなのだ。言葉を換えれば、君たちが日陰者であるときのほうが、国民や日本は幸せなのだ。どうか耐えてもらいたい」
ひたすら再軍備を「経済の足かせ」と拒み、対米追従の通商国家をめざした吉田。皮肉にもその吉田の下で、警察予備隊・保安隊・自衛隊はすべて誕生した。
マッカーサーの弱体化路線からMSA(守るも、攻めるも、アメリカのため)への急激な右旋回の間、ほぼずっと一人で番を張ってきた“戦後番長”・吉田茂。GHQと官僚に支えられ、そのワンマンな政治手法で戦後政治の骨格を築き上げてきた吉田茂。戦後政界唯一の勝ち組に見えた彼も、結局は時代のニーズ、アメリカのニーズの変化に翻弄され、ここに一つの時代「戦後」は終わった。
※ここから先の内容に興味をお持ちの方は、書籍『やりなおす戦後史』をぜひお買い求めください。