改憲をめぐる攻防でつくられた「55年体制」

 自由民主党初代総裁には、鳩山一郎が就いた。すでに1954年12月に、自由党の吉田首相は辞任し、日本民主党の鳩山一郎が首相になっていたから、妥当な決定だった。

 しかも、先の2月に行われた総選挙では「鳩山ブーム」が起きていたことも、決定の理由だった。吉田と違って庶民的なキャラ、GHQによる“悲劇の被追放者”のイメージ、病気で倒れたことへの同情などが鳩山を人気者にし、その結果、日本民主党は「124→185議席」に躍進していたのだ(吉田の自由党は「180→112議席」にダウンしていた)。

 改憲阻止のために作られた日本社会党と、改憲のために作られた自由民主党。この両者により、この後1993年まで続く“日本の二大政党制”を「55年体制」という。

 ただしこれは、本当の二大政党制ではない。なぜなら本当の二大政党制とは「政権交代可能な二つの政党のせめぎ合い」だからだ。自民党と社会党の議席比率は、約2対1ぐらい。これでは政権交代は絶対ない。

 でも、自民党は3分の2の議席にまではいたっていないので、憲法改正もない。この「政権交代も憲法改正もない“1と2分の一政党制”」こそが、55年体制なのだ。

シベリア抑留の日本人捕虜を救え!――日ソ共同宣言

 鳩山一郎は念願叶ってようやく首相になったが、彼が首相として成し遂げた最大の功績は「日ソ共同宣言」だ。

 1951年のサンフランシスコ講和条約は西側の国々のみと一斉に仲直りするという「片面講和(単独講和)」だったため、社会主義の中国やソ連、それに「戦ったわけではない」ため講和条約に招聘されなかった韓国・北朝鮮とは、まだ関係がこじれたままだった。これらの国々との仲直りは、一国ずつ条約を結ぶなりしてやっていくしかない。

 その中でも、特にソ連との講和は重要だ。理由は3つある。まず1つ目は、この当時ソ連には、シベリアに抑留されたままの日本人捕虜が、まだ何十万人もいたからだ。一部帰国を果たした者はいたが、その総数は65万人とも言われている。

 彼らは旧日本軍の兵士や満州にいた民間人、満蒙開拓移民団などで、第二次世界大戦が終わって10年もたつのに、まだシベリアの収容所で過酷な強制労働に従事させられていたのだ。

 なぜ、こんな非人道的なことが許されたのだろうか? それは国際法上、ソ連とはまだ「戦争中」だったからだ。サンフランシスコ講和条約を結んでない以上、その国とはまだ終戦していない。そして戦争が終わっていないのならば、そこに捕虜がいるのは当然のことだ。片面講和のツケは、こういうところに出てしまっている。

 ソ連との講和が必要な理由の2つ目は、国連加盟の問題だ。日本も戦後、世界と仲よくやっていこうと思うなら、国連加盟は不可欠だ。だが国連加盟には、五大国と呼ばれる常任理事国すべてが賛成してくれなければ入れない。ということは、ソ連との終戦を後回しにして国連に入ろうと思っても、ソ連が「拒否権」を発動すればパーだ。

 さらに講和が必要な理由の3つ目は、北方領土問題だ。北方四島(歯舞・色丹・国後・択捉)は、第二次大戦時のヤルタ会談でアメリカのルーズベルトとソ連のスターリンが密約し、「ソ連が対日参戦する見返りとして、ソ連は樺太と千島列島を手にできる」ことにされてしまっていたため、戦後は当然のようにソ連の支配下にあった。

 ならソ連との講和が成れば、ひょっとしたら返してもらえるかもしれない。これについてはまったく保証はないが、少なくとも「いまだに交戦中」の状態よりははるかに返還される見込みがある。

 幸いソ連のリーダーは、ヤルタ会談の当事者・スターリンが死に、そのスターリン批判で名を上げたニキータ・フルシチョフになっている。対して日本も、「対米追従型」の吉田茂が退いて、「自主独立」の鳩山一郎が首相になった。この両者なら、今までらちがあかなかった日ソ国交回復も、叶うかもしれない。

 鳩山内閣は1955年から水面下で何度もソ連と国交回復の条件を話し合い、ついに1956年、日ソ共同宣言を実現させた。これで、ソ連との戦争状態は終結し、捕虜は返還され、日本は国連加盟を実現した。しかも講和条約締結時に、「歯舞・色丹の二島返還」の約束まで取り付けた。四島すべてとはいかなかったが、領土問題解決の足がかりができただけでも上々の成果だ。これが鳩山首相の主な功績だ。

 また鳩山は、実現こそしなかったけど、憲法改正にも執念を燃やした。彼は憲法改正の発議(=国会提案)に必要な「総議員の3分の2以上の賛成」を自民党だけで実現するため、大政党に有利な「小選挙区法案」を作ろうとしたり、自主憲法の原案を作るため、内閣に「憲法調査会」を作ったりした。GHQからさんざんな目に遭わされてきた鳩山だけに、自主憲法の制定は悲願だったのだろう。