色めき立つ社会党と自由民主党の誕生

 そして1955年、政界に大激震が走った。当時左派と右派に分裂していた社会党が、再合一したのだ。

 片山内閣崩壊後、社会党はサンフランシスコ講和条約と日米安保条約への賛否をめぐって、「左派社会党(両方に反対)」と「右派社会党(安保にだけ反対)」に分裂していた。

 にもかかわらず、総選挙では左右両党とも議席数をどんどん伸ばしていた。これには、以下の理由が考えられる。保守政党における「吉田vs鳩山」の政争への嫌悪感、進み始めた再軍備や改憲論議への警戒感、社会主義が示す理想社会への期待感(当時はまだ社会主義への先入観や偏見は、社会全体で共有されるほどのものではなかった)などだ。

 特に、再軍備への警戒感は強かった。何といっても日米安保条約が結ばれ、公職追放が解除されたばかりだ。この流れを放置すれば、保守系政党に戦中政治家がどんどん復帰して次第に発言力を強め、最終的には「憲法九条を改正して再軍備」などという“いつか来た道”への逆戻りをやらかしかねない。

 日本人は、もう戦争に懲りていた。だからそんな「逆コース(=戦前回帰)」を選ばせるわけにはいかない。そういう国民の思いが、社会党への投票という形となって表れたのだ。そのおかげで左右社会党は、「バカヤロー解散」時の総選挙で、左派社会党が56から72議席へ増加、右派社会党も60から66議席へ増加と、それぞれ躍進していたのだ。この好調ぶりに、社会党自身も色めき立った。

「こ、ここまで勝てるとは……これはひょっとしたら、このタイミングで社会党が再合一すれば、うまくいけば政権交代、悪くても改憲阻止に必要な議席数(両院の3分の1より多く)は獲れるんじゃないか!?」

 ケンカ別れしていた両者だが、これらはどちらも魅力的だった。結局、彼らは再合一を果たし、ここに1955年10月、「日本社会党」が誕生した。社会党の勢いはこの後もまだ続き、1958年の総選挙では、衆議院だけで166まで議席を伸ばした。これで“3分の1超え”だ。

 この革新系(社会主義系、変革重視)政党の躍進は、保守(資本主義系、伝統重視)政党であった自由党と日本民主党にも危機感を与えた。

 鳩山率いる日本民主党は、吉田路線とは違った「対米自立路線」をめざしていた。ならば当然、アメリカからなかば押しつけられるようにして制定された今の日本国憲法を排し、日本人自身の手による自主憲法を制定しなければならない。対する吉田の自由党は「対米協調(というか追従)」を軸とし、アメリカの軍事力で守ってもらいつつ経済発展する道を選んだ。

 しかし、社会党の誕生は、民主党にとっては憲法改正のジャマ、自由党にとっては安保と経済発展のジャマ(社会主義政権下では自由な経済発展は望めない)と、保守政党のどちらにとっても歓迎できない結果を招きそうだ。ならばこちらも、仕方ないから手を組むか――こういう流れで、1955年11月、今度は自由党と日本民主党が合流して、「自由民主党(自民党)」が誕生したのだ。

戦後の政治もまた、<br />改憲をめぐる攻防から始まった自由民主党結成大会