鶴見から見れば、中川はほぼ息子の世代であり、両親とは同年代だった。

 苦情を言われると思った鶴見に、両親は、「岩国に行ってきました。息子に会いました。続けさせます」と告げる。

「この感動は今もあざやかだ」と鶴見は『隣人記』に書いている。

 肩肘張らない中川の人柄もあってか、「ほびっと」は親しみやすい雰囲気で評判もよく、わざわざ広島や下関から通ってくる人もいた。もちろん、米兵も出入りする。

 その様子は中川自身の手で『ほびっと 戦争をとめた喫茶店』(講談社)に活写されている。鶴見より先に中川の方が亡くなってしまったが、この本の結びに、鶴見がこう書いている。

「『ほびっと』は、惜しまれてつぶれた。六平は近所のおばさんに人気があり、送別におむすびをもらった。『ほびっと』の終わりからしばらくして、ベトナム戦争はベトナム人民の勝利に終わった。やがて人間は過ぎてゆく。その終わりの前に、日本人民の中にひそんでいるホビットやザシキワラシに呼びかけて、新しい反戦運動が起こるのを待つ」

 鶴見は、マスターの六平が得意とした焼きうどんをよく食べたらしい。

 『週刊金曜日』の企画で、京都大学会館で鶴見にインタビューしたのは2007年の9月13日だった。終わってタクシーで鶴見を自宅に送った後、京都駅へまわろうと思ったら、3分だけ上がりませんかと言われ、お邪魔した。

 案内された部屋に魯迅の「眉を横たえて冷やかに対す千夫の指、首を俯して甘んじて為る孺子(じゅし)の牛」という言葉を書いた軸が架けてあった。

 これを竹内好は「文壇やジャーナリズムからは八方攻撃(千人の指弾)されるが平気の平左、家でハイハイして子どものお馬になって遊んでいる」と解釈しているが、鶴見は私が魯迅を好きなことを知っていて、これを見せたのだろう。後輩にこういう心遣いをする人だった。私が鶴見から教わった最も大事なことは「マチガイに学ぶ」ということである。