言外に込められたメッセージが
職場の関係性をじわじわと壊す

「健康保険組合のミスです」という対応は、ミスがあったことは認めているが、自分には責任はないと言っている、責任の所在を転嫁する対応だ。意識しているか否かにかかわらず、社員には、「私は悪くありません」というメッセージが強く伝わる。

「プロセスのどこかのミスです」という対応は、これもミスがあったことは認めているが、どこにミスがあったかはわからないと言っている、責任の所在を曖昧にする対応だ。社員には、「私は知りません」というメッセージが強く伝わる。「プロセスのどこかでミスがあったようです」という「ようです」という表現になると、「自分は第三者です」と言っているようなもので、社員には、「私は関係ありません」というメッセージが伝わる。しかし、ここまではミスがあったことを認めているので、まだ罪は軽い。

 4と5になると、人事はミスすら認めていない。「プロセスのどこかでミスがあったかもしれません」という言い回しからは、社員が誤りを指摘しているにもかかわらず、ミスそのものがあったかどうかということを曖昧にしようとする意図が伝わる。社員には「どうでもいいじゃありませんか」という、なんとも無責任なメッセージとなる。社員からの申し出に触れず、従ってミスにも、責任所在にも触れず、「健康保険組合へ修正依頼してください」となると、これは、意図しようがしまいが、「申し出た社員を無視しています」というメッセージだ。

 人事担当者からこれらの対応を受けたとして、どの対応に最も違和感を覚えるだろうか。申し出に対しては何も言及せずに、どこそこへ修正依頼してくださいという5のパターンではないだろうか。既にお気づきのとおり、1から5になるにつれて、言い繕いが及ぼす深刻度合いは高くなる。パターンとして挙げた、責任所在の転嫁や曖昧化、偽装、ミスの曖昧化や無視が、組織を衰退させるのだ。

 しかし、これらのうち1から4までは、程度の差がありこそすれ、ミスの所在を認識しているので再生の道はある。一方、5の「ミスを無視」するパターンは、再生の意識の改革が必要で、これは一朝一夕には実現しない。

 そして、ミスを無視することよりも、さらに深刻度合いが高いのが、ミスを美化することだ。ミスはあるべきでないこと、と言い換えても良い。転職を卒業と言い繕うことも、離婚届を卒論と言い繕うことも、私には、あるべきでないことを美化していることに思えてならない。

※社名や個人名は全て仮名です。本稿は、個人の見解であり、特定の企業や団体、政党の見解ではありません。