謝罪における「正義」とは?

「ゲスの極み乙女。」の川谷絵音とベッキーの不倫騒動は、まさかのLINE流出という非常に今日的な出来事によってさらに世間を騒然とさせてしまっているが、今回の件を参考に企業社会やビジネスパーソンにとっても、人ごとではない(つまり、いつ当事者になるかもしれない)「謝罪」というものについて考えてみたい。

 今回のようにニュースやワイドショーで大きく取り上げられるような事件/騒動が起きると、たいていの場合、当事者は記者会見を開いて謝罪する。そして、危機管理の専門家みたいな人たちが「謝罪のあり方」をコメントし、メディアを通じて伝授する。その基本は「とにかく早急に会見を開いて、真摯に謝りまくれ」というものだ。これはまあ、間違ってはいない。謝罪会見なのだからとにかく低姿勢に徹して謝りまくる、というのは正しい姿勢だ(そうでなければ炎上する)。

 ただ、問題なのは、その謝罪の「中身」である。そしてその中身について、多くの専門家は、指摘したり伝えることはほとんどない。危機管理屋さんにとってはそこが商売の肝なので、教えられない、メディアなどで語れない、知りたければコンサル料を払ってください、という事情もあるのかもしれないが、僕は謝罪コンサルタントではないので、つまりそれで商売をしているわけではないので、本当のことをお伝えしたいと思う。

 多くの謝罪コンサルタントが表立って指摘しないことには、大きく2つのポイントがある。

「謝罪は永遠に残る」という事実

 まず1つ目のポイントは、「謝罪は永遠に残る」ということだ。ネットに上がったものは完全に削除することは難しく、永遠に残ってしまう。これは、リベンジポルノや他人への誹謗中傷発言などに対する“警告”としてよく言われることだが、「謝罪」も同様だ。謝罪会見を開かねばならないような「事件」は人々の関心を引くので、ニュースサイト以外でも個人のブログなどさまざまなところで書かれてしまう。そして、その記事や書き込みは永遠に残るのだ。謝罪した本人の意思を超えて「謝罪したという事実だけが残る」ということを踏まえて、謝罪するかどうか、謝罪するとすればどうすべきか、をよく考えるべきだ。

 ネットでは大きな炎上事件が頻発した時期があった。ほとんどブームと言ってもいいくらいの勢いで炎上し、それに伴い多くの人が謝罪することになったのだが、そのなかにはあまりに理屈に合わない理由で攻撃されたり、事実誤認で炎上したり、謝る必要がないと思うのに謝罪する人もいた。もちろん、謝罪すべきようなことをしたら謝罪するのが当然ではあるが、そうではないケースなのに安易に謝罪してしまうと、謝罪したという事実だけが独り歩きしてしまい、長期的なレピュテーションの悪化につながってしまうこともある。