桃太郎の話は、さまざまな形で語られている。私の記憶に残っているのは、次のような話である。

 桃から生まれた桃太郎は、育ててくれたおじいさんとおばあさんにきび団子をたくさん作ってもらい、それを持って鬼が島へ鬼退治に出かけた。道中で、犬、キジと猿を、持ってきたきび団子で手なずけて家来にした。桃太郎一行が鬼が島につくと、犬は鬼の足に咬みつき、キジは鬼の目をつつき、猿は鬼をひっかいて攻撃したものだから、鬼はたまらず降参した。桃太郎たちは鬼から取り上げた宝物を持って故郷に錦を飾った。

桃太郎はつまらない話ではないか

 誰でも知っている昔話であるが、こうしてあらためて書いてみると、いかにもつまらない。面白い昔話には、はっと思わせるもの、あるいは後までじんわりと心に残るものが何か一つはあるものだが、この桃太郎を何度読んでもそのような感覚が起こらないのだ。

 話をつまらなくしている原因の一つは、桃太郎と家来たちとの関係が十分に掘り下げられておらず、また家来の役割に必然性が欠けているところにある。

 桃太郎は、鬼退治のために家来三匹を要している。すなわち、桃太郎には一人で鬼をたいらげるだけの器量はなく、彼を支える家来が必要だったのである。

 家来が必要だということ自体はよい。問題なのは、家来になるべき動物たちが、忠実に主人に尽くす種類のものではないという点だ。犬はよいとしても、猿やキジが人に協力するたぐいの動物とは思われない。しかも犬猿の仲と言うくらいだから、ここから統制のとれたすぐれた部隊という印象は生まれない。

 せめて、桃太郎が鬼が島に乗り込んでいったときに、仲は悪いが特技が異なるこの三匹の家来が、それぞれ特徴を生かし欠点を補いあって、何とか困難な目標を達成するというのであれば、これらの動物が登場した必然性が明らかになったろう。一人一人がばらばらに仕事をしたのでは力不足だが、整然とした役割分担で組織として見事な能力を発揮し、手ごわい鬼に辛勝するという筋であったならば、桃太郎は経済学でいう分業による価値創造の過程が巧妙に織り込まれた実に味わい深い作品であると、私はここに書いたことであろう。

 ところが桃太郎の話では、鬼との合戦場面は実に淡白である。経済学的な分業の教訓どころか、軍事戦術的な機略もまったく感じられない。私が調べたどの童話でも、きび団子によって桃太郎とその一行はすぐに日本一強力な戦闘集団と化す。そのため、鬼は特段の反撃もできずにあっさりと敗退してしまう。これでは話がつまらなくなるわけである。もとより数ある桃太郎の話をすべて調査したと主張するつもりはないが、少なくとも桃太郎と聞いて、鬼との困難な合戦の場面を想起する人は多くないだろう。

大義名分の欠如

 桃太郎の話では、鬼の悪行という場面の描写が希薄である。そのため、鬼がなぜ憎まれなければならないのかが判然とせず、唐突に開始される鬼退治は、もっぱら桃太郎の個人的な力試しという印象を与えてしまうのである。