幕末の軍師・大村益次郎は、寄せ集めの混成軍を率いて軍事集団だった幕府軍に勝利する。そこには自軍の核となる強みを見抜き、新時代に合わせた軍制につくり変えた革新的な組織改革があった。今も昔も変わらない不変の勝利の法則を、ビジネスでも応用できるようにまとめた新刊『戦略は歴史から学べ』から一部を抜粋して紹介する。

【法則11】変革は「核となる強み」を見抜けるかどうかで決まる

混成の新政府軍が、なぜ軍事集団の幕府軍に勝てたのか?
阿片戦争で清がイギリスに敗れたことは、日本に伝わり海防への危機感を高めた。日本最後の内戦である戊辰戦争で、徳川幕府と維新勢力の薩摩・長州が激突する。元医者の大村益次郎を参謀に、庶民との混成軍である維新側は、なぜ軍事集団の幕府軍に勝てたのか?

海外列強の脅威に直面した、徳川幕府と薩摩・長州の駆け引き

 1600年から続く徳川幕府は、鎖国政策で通商条約などの締結を拒絶していました。しかし1853年に、アメリカ海軍のペリーが艦隊を率いて来航、流れが変わります。幕府は各藩に陸・海上を警備させますが、剣術修行で関東にいた若き日の坂本龍馬も召集に応じています(翌年の再来航でアメリカと条約を結び、日本の鎖国が終わった)。

 京都の治安が乱れて、幕府は1862年に会津藩を京都守護職に任命、浪人組織の新撰組と共に治安維持を命じます(江戸には同様な“新徴組”という浪人組織があった)。権威のゆらぐ幕府は、朝廷と結びつき権力を一本化して、徳川家を存続させる「公武合体」を目指します。有力藩だった薩摩藩は会津藩と同盟して公武合体派を強化、倒幕派の長州藩はこれに危機を感じ、1864年に京都で会津藩と交戦します(禁門の変)。

 会津・桑名・薩摩(西郷隆盛が指揮)・新撰組などの“幕府側”が長州軍を撃退する中、長州側の弾丸が御所に入ったことで長州は朝敵となり、わずか2日後に第1次長州征伐が行われ、長州藩は戦わずして降伏します。

 長州藩の劣勢を逆転させたのが坂本龍馬です。イギリスの貿易商トーマス・グラバーの後ろ盾を得た龍馬は、遺恨のある薩摩と長州を結び付け、1866年に薩長同盟が成立。龍馬の会社、亀山社中は軍艦や西洋の武器を両藩に調達します。

 長州の不穏な動きに幕府が行った第2次長州征伐は、薩摩藩が参加せず、さらには長州藩(高杉晋作が指揮)が龍馬の調達した洋式武器を装備したことによって失敗し、幕府の権威が完全に失墜したことを示すことになりました。

 1867年、ついに大政奉還が行われますが、薩長は旧幕府勢力を一掃するために挑発を重ねます。挑発に耐えかねた旧幕府軍は薩摩藩邸を焼き討ちし、大坂の徳川慶喜を中心に京都への上洛を決定。長州藩は朝廷から赦免を受け、旧幕府軍が上京すれば「朝敵」とするとの布告を得て、今度は薩長が旧幕府軍を“朝敵”にする立場の逆転に成功します。

村医の息子、大村益次郎が幕末維新を生み出す軍師となった理由

 第2次長州討伐を含め、長州軍の度重なる勝利に貢献したのが軍略家の大村益次郎です。大村は医者を目指し当時有名だった広瀬淡窓や緒方洪庵に学びます(1846年)。しかし洪庵の「上医は国の病を治す」との言葉から、帰藩後、西洋兵術の翻訳・研究に従事。やがて彼は長州藩の軍制改革の指導者となっていきます。

 大村を軍略家に押し上げたのは、西洋兵学の核心をつかんでいたことです。大村の戦略の根幹には「最新式の銃・火砲の性能を最大限に活用する」という発想がありました。最新の銃や大砲は命中精度が高く射程距離も長いので、上野の彰義隊との戦いのアームストロング砲のように、相手の攻撃が当たらない距離で敵に打撃を加えられたのです。

 欧州では1800年代初頭のナポレオン戦争から火力を中心とした兵制の三兵戦術(歩兵・騎兵・砲兵を統合して指揮)が研究され、大村もオランダ人クノープの兵学書を翻訳して長州藩で講義に使いました(書籍名は『兵家須知戦闘術門』)。

 大村は自らのつかんだ核心を元に、新時代の軍制をつくり戊辰戦争で勝利を重ねます。

・武士だけでなく農民も武装・訓練を施して戦力とした
・すべての兵士に銃を持たせ、年式を統一して弾薬の補給を効率化した
・新式銃を使い、うつ伏せの体勢で物陰に隠れて敵を攻撃
・敵の攻撃が届かない遠方から撃ち、優勢な火力で一方的に打倒する

 京都の鳥羽・伏見の戦いの旧幕府側の指揮官は竹中重固でした。彼は秀吉の軍師として有名な竹中半兵衛を先祖に持ち、桑名軍には12代目服部半蔵が率いる部隊もありました。 幕府側は、当時最強の会津、桑名藩でも武装は刀や槍を重視しており、一部に最新鋭の銃砲隊があるも、指揮官が古い戦闘法しか知らず、合理主義の薩長に敗退します。

 同時代に最新式の銃や大砲、西洋兵学に触れた者は何人もいましたが、大村の軍事指揮と兵制改革は群を抜いて優れていました。彼は勝利を左右する要素を正しく見抜いており、重火器の最大活用以外に目もくれず、兵士が差した刀を無駄と断じていました。

 長州討伐で幕府軍を迎え撃つとき「大村の出で立ちは、草履ばきに浴衣姿、渋団扇を手にするという型破りのものだった」とされています(NHK取材班・編『その時歴史が動いた〈18〉』より)。

 これは西洋の武器に敗北を続けた新撰組の土方歳三などが、のちに洋風の服装に切り替えたことと、ある意味で対極を成す姿ではないでしょうか。オランダに軍事留学していた幕臣、榎本武揚も戊辰戦争では有名な人物です。彼は最新の戦艦「開陽丸」をオランダから日本に運んでいます。全長73メートルの巨大戦艦、開陽丸はオランダ軍にも同じ船はないと言わしめた当時の最新鋭艦でした。

 しかし開陽丸は、小さな海戦で圧倒的な威力を見せたものの、最大限活用をすれば戦局を逆転するほどの威力がありながら、最後は北海道の江差港で座礁して沈没。阿片戦争でイギリス海軍がわずか数隻の戦艦で達成したことを考えると、当時薩長軍にもない強力な開陽丸は鳴かず飛ばずだったといえるでしょう。

 最新鋭艦という強力な武器も、相応しい運用方法がわからず宝の持ち腐れとなった一方、最新の用兵術を学んだ大村は、ゲベール銃からアームストロング砲などの威力を存分に活用して、古い軍事常識にしばられた旧幕府軍を瓦解させることに成功したのです。