多くの武将たちが権謀術数をめぐらす戦国時代。そこで最後に勝ち残ったのは、なぜ徳川家康だったのか? 目の前の変化から学ぶ家康の学習優位戦略こそ、不確実な今の時代にビジネスパーソンが学ぶべき戦略である。今も昔も変わらない不変の勝利の法則を、ビジネスでも応用できるようにまとめた新刊『戦略は歴史から学べ』から一部を抜粋して紹介する。
【法則8】最速で学び反映できる者が最後は生き残る
家康の古くからの同盟者の織田信長が死去し、日本で一番出世した男と言われる豊臣秀吉の天下となる。小牧・長久手の戦いのあと、長い雌伏の期間を得て、家康は天下人として開花。1600年の関ヶ原で勝利した英雄は、どんな戦略で逆転したのか?
反抗した勢力を徹底的につぶした秀吉
信長の次男、信雄と家康が秀吉と対峙した「小牧・長久手の戦い」は、家康が人質を差し出す形で停戦しましたが、翌1585年に秀吉は伊勢に出兵。前年に家康に呼応して反秀吉側で戦った雑賀衆を壊滅させます。3ヵ月後には四国の長宗我部を制圧、5ヵ月後には北陸に大軍を派遣、反秀吉側の佐々成政を攻め、領地の大半を奪います。
同年11月には、家康の腹心だった石川数正が突如、秀吉側の家臣となる事件が起きるなど、停戦後に電光石火で反勢力を各個撃破、秀吉は自らの基盤をさらに強固にします。
・九州の島津を討伐(1586年7月~翌年4月)
・家康が秀吉に臣従を誓う(1586年10月)
・小田原、北条氏討伐と秀吉の天下統一(1590年)
北条氏討伐の同年、家康は秀吉の命令で関東に所領が移されます。代々縁の深い三河地方ではなく、家康と家臣団の拠点は関東平野に移動。入り江や沼地が多かった関東平野を開墾し、利水・埋立事業を起こしたことで、今日の東京への基礎がつくられます。
関ヶ原の戦いで、豊臣家臣団を二つに分裂させた家康の手腕
秀吉は、家康を箱根の向こう側に閉じ込めたと思ったのでしょうが、家康は豊臣側の厳しい監視から離れて開拓を進めて、300万石の収穫を持つ強国に成長させていました。1598年8月、秀吉が死去。その前に二度行われた朝鮮出兵で、出陣した豊臣宿将たちと石田三成などの文官との関係が険悪となり、西日本にいた豊臣大名の勢力も疲弊します。一方、家康は朝鮮出兵では名古屋まで兵を進めて、海を渡りませんでした。
徳川家康が天下を獲れたのには、大きく分けると三つの要素が想定できます。
(1)未開の関東平野に移動して、秀吉の監視から遠く離れて国力を増強できた
(2)朝鮮出兵の無謀さから、渡海を控えて戦力を温存した
(3)1600年、関ヶ原の戦いで徳川VS豊臣ではなく、東軍VS石田三成としたこと
関ヶ原の戦いで、東軍(家康)側には、もと豊臣武将が多数おり、西軍(三成)側は西日本で豊臣が征伐した勢力が主力でした。秀吉の子飼いの武将だった加藤清正、福島正則、加藤嘉明までが家康側に参加し、石田三成を打倒するため戦ったのです。
これは、家康が巧みに掲げた戦闘の目標が、三成のものより「多くの人を巻き込む魅力」にあふれていたことを意味します。