亡霊のようによみがえったインパール作戦

 昭和17年(1942年)7月、日本軍はビルマ(現在のミャンマー)全域を占領する。

 ところが、いったん退却した英国軍はインド東北部の都市インパールに拠点を移し、ビルマ国境外から執拗に攻撃を加えてきた。彼らが蒋介石率いる国民政府への物資補給を継続していることも、日中戦争終結の大きな障害となっていたのだ。

 ビルマの守りを固めるか攻勢に出るか意見が分かれたが、南方軍はインパールを攻略する作戦を大本営に上申する。

 大本営は東京の市ヶ谷に置かれていた軍の最高統帥機関だ。陸軍の作戦のすべては、大本営の参謀本部に集う参謀たちによって決定されていた。

 当初、インパール作戦については、山地であることに加え雨季があることから補給の困難が指摘され、いったん保留とされる。

 一方で、昭和17年6月5日のミッドウェー海戦大敗で制海権を押さえられた影響は大きく、翌昭和18年(1943年)2月には、橋頭堡の航空基地を米軍に奪われたガダルカナル島に大きな兵力を投じたものの、精鋭部隊が全滅するなど、一敗地に塗れ同島から撤退する。アメリカとオーストラリアの軍事連携を遮断するどころか、ソロモン諸島の制空権をも完全に米軍側に押さえられ、いよいよ敗色が濃くなっていった。

 ここで再びインパール作戦が亡霊のようによみがえってくる。

 昭和18年3月、南方軍の下にビルマ方面軍が創設され、ビルマ方面の防衛の任にあった第15軍司令官として牟田口廉也(むたぐち・れんや)が着任したことがきっかけだった。

 牟田口はかつて第18師団長としてインパール作戦に反対していたが、インパールを攻略するだけでなく、一気にアッサム地方まで進攻すれば、英国の植民地であるインドの独立運動を誘発するなどの効果も期待でき、英国軍は総崩れになると考え、かつては反対したインパール作戦を自分にやらせてほしいと訴えたのだ。

 実際、日本側にはインド独立運動指導者の一人であるチャンドラ・ボースも、約6000名を率いるインド国民軍最高司令官として加わっていた。

 彼は日本軍に勧誘されたわけではない。シンガポール、マレーシアと、英国側との戦いに次々に勝利していく日本軍を見て、積極的に参加を申し出たのだ。

 英国軍の前線にインド兵がいることはわかっている。同士討ちになるのは覚悟の上で、彼らはインド独立のため「チェロ・デリー(進めデリーへ)」を合言葉に、日本軍とともに戦うことになった。