お嬢様育ちだった母の苦労
前回触れたが、塚本幸一はしばしば、
「塚本家は極道もんの筋だから」
と口にした。
祖父や父の放蕩ぶりを誇張しつつ、自分のお茶屋通いの言い訳にしているようにも受け取れるが、それだけではないようだ。
塚本幸一はワコールが経営危機に直面するたび、尋常でない腹の据わり方でそれを乗り切っていった。そこには確かに一種の“侠気”を感じずにはいられない。そんな彼の中に流れる激しい血のことを、彼は“極道もん”と表現したのではないだろうか。
今回は父粂次郎の人生を通じ、塚本幸一の人格形成の歴史について、さらに深く探っていくことにしたい。
大正8年(1919年)3月に信との婚礼を挙げた粂次郎だったが、翌4月には、伯父であり養父でもある本家の4代目塚本仲右衛門に連れられ、仙台へと赴任していった。結婚早々の夫婦別居である。
「7月には迎えに来るから」
という言葉を残してくれたものの、以降、新妻の信は夫の実家である滋賀県五個荘村字川並の塚本本家で過ごすこととなった。
塚本家のあった五個荘村は“聞いて極楽、見て地獄”と言われるほど習慣やしきたりの厳しいところ。それだけに、信の新婚時代の苦労は並大抵なものではなかった。朝早く起きて、大きな屋敷の拭き掃除や洗濯など女中と変わらぬ仕事をさせられ、夜は夜で本家の子どもたちの習字のお稽古をみてあげる毎日。
5月に法事があった際、ちょっと疲れて考えなしにその場に腰を下ろした時、本家の母親に、
「上座に座るのやない!」
と、満座の中で恥をかかされたこともあった。お嬢様育ちだった信には、その辛さや寂しさは一生忘れられないものであった。
夫が迎えに来てくれるまでの3ヵ月間は永遠にも感じられる長い時間だったが、約束通り粂次郎は7月に迎えに来てくれた。
新婚旅行気分で仙台へと向かい、塚本商店のあった大町4丁目(現在、七十七銀行芭蕉の辻支店がある場所)から南に歩いて15分か20分ほどの花壇川前町(現在の仙台市青葉区花壇)に新居を構えた。新居と言っても古い家だ。社宅代わりに本家が用意してくれたのである。
実家から離れることができて信はほっとしていたことだろう。仙台にも五個荘村のしきたりが追いかけてくるということに、彼女はまだ気づいていなかったのだ。
仙台に到着して間もなく、明るい話題があった。信が身ごもったのだ。
彼女にとっておなかの中の子どもこそ、生きる希望だった。本願寺仙台別院に説教を聴きに行ったりしたのはこの時のことだ。おなかの中の子に聞かそうとしたのである。今で言う“胎教”であろう。
分家の嫁の出産は本家にとっても慶事である。産婆だけでなく医者や看護婦も呼ぶなど、手厚くしてもらった。はるばる実家から母親の正(まさ)が手伝いに来てくれたはいいが、早とちりして出産日を1ヵ月間違えてやってきてしまったのはご愛敬。そうこうするうちに無事出産の日を迎えることができた。
こうして生まれてきたのが幸一である。大正9年(1920年)9月17日午前8時のことだった。この日の中央気象台の天気図を見ると、曇ってはいたが風のない穏やかな一日であったことがわかる。
早く来すぎていた母親は、家のことが心配で、出産後、4、5日経つと早々に近江八幡へと帰ってしまった。周囲に人がいたこともあり、自分がいかにつらい境遇かはついに話せずじまい。心細さも加わって、信はしばらく泣いて暮らした。
塚本家に嫁いでよかったことは、オシメに困らなかったことである。見本の布地がたくさんあるのでこれを代用し、色とりどりのオシメが物干しざおに並んだ。それが幼子の柔らかなお尻によかったかどうかは定かではないが。
翌大正10年(1921年)10月29日には妹の富佐子が生まれた。年子であったため母乳が足らず、東京和光堂のミルクで育てた。
その翌年には次女節子が生まれる。次々に子どもを作ったのは、おなかの大きい間だけは、さすがに大事にしてもらえるという防衛本能が働いたため、というのは考えすぎであろうか。
だが無理はいけない。8ヵ月の早産である上、運悪く寒い時期だったために、幼い赤ん坊は天に召されてしまうのである。
〈翌十一年十二月十二日に次女を八ヵ月で早産いたしました。寒いところゆえ、今と違って一番大きな柳行季に湯たんぽを四つも入れて、看護婦をつけて温めて居りましたが、三日目に他界を致しました〉
自著『思い出の記』の中で語る信の言葉には悲痛なものがある。