閉塞する日本経済に突破口が見出せないなか、オタク文化とその象徴たる秋葉原に注目が集まっている。秋葉原が“尖った街”ならば、宮脇修一・海洋堂社長はその切っ先だ。「週刊ダイヤモンド」9月25日号(9月21日発売)の特集「アキバ変態(メタモルフォーゼ)」に先行して、“先駆者”が語るアキバ論をお送りする。(聞き手/「週刊ダイヤモンド」編集部 山口圭介、河野拓郎)
海洋堂社長。1957年大阪府生まれ。現在のフィギュア文化の立役者。創業者である父・修氏と共に、大阪府の一模型店であった海洋堂を、日本を代表するフィギュアメーカーに育て上げた。同社は美少女、ロボットから恐竜、仏像に至るまであらゆるフィギュアをリリース。その高い造形力は世界的な評価を受け、「チョコエッグ」の爆発的ヒットで、ユニークな企業として一躍注目を浴びた。著書に『造形集団 海洋堂の発想』(光文社新書)。
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──秋葉原が現在のような“オタクの聖地”になったのは、海洋堂の店舗「ホビーロビー」の出店が契機だといわれています。秋葉原への出店は、どういう経緯だったのでしょうか。
最初は茅場町に出店して、86年に“若者文化の発信地”と言われていた渋谷に移ったんですね。自分たちの作品、特にフィギュアビジネスというものが、社会からあまり認知されていなかったので、できるだけ多くの人に文化的な部分で見てほしいという思いがあった。
そこで10年以上やっておったんですが、当時の渋谷店の店長が「これからはもうアキバですよ。秋葉原という街は、僕らオタクの人間に合ってますよ」と言ったんです。
もうこれ以上、渋谷でやっていて変わることもなさそうだったので、「おお。それやったらそっちいこかー。ものは試しやー」と、あまり深く考えずに秋葉原に行ったんですな。それが97年です。
──しかしその当時の秋葉原は、まだ現在のような“萌え”の街ではなかったわけですよね。
どちらかというと、ゲームセンター目当てのお客さんが多かったですね。フィギュアショップというのは一軒もなかった。
そこへ初めて海洋堂が出てきたわけなんですが、「なんじゃこら」と正直びっくりしました。お客さんがアホみたいに来るんですよ。秋葉原でも最初は、一等地でもないちょっと筋を離れたところの雑居ビルだったんですが、渋谷時代から比べると、売り上げが軽く50%ぐらいは増したんじゃないですかね。
売り上げだけじゃなくて、お客さんの“反応力”がすごかった。新製品を出したときの情報伝達の速さとかね。