「正定事件」対応で確信
官邸主導での情報発信は急務
前項で指摘した「正定事件」について、官房副長官の萩生田光一氏の動きは素早かった。日本政府の資料などをそろえてバチカンに提出することになった。
同事件について中国とオランダは、1937(昭和12)年10月9日、中国河北省正定で日本軍がカトリックミッションに対し200人の女性を要求し拒絶されたために、シュラーヴァン司教を含む9人の宣教師らを殺害したと主張する。女性を守って犠牲となった9人を聖人に次ぐ福者として顕彰し列福してほしいと、中国とオランダがバチカンに申請済みなのである。
萩生田氏が語った。
「早速調査させました。日本外務省が1939(昭和14)年までにまとめた記録では『満州軍により殺害』と記されています」
日本政府は事件後すぐに調査をし、残念ながら犯行は日本軍によるものだったとして対処したというのである。
外務省の資料では、日本政府は事件からひと月半後の1937年11月22日、正定で営まれた「弔祭式」に参列した。これは弔意と謝罪を表明した公の行動だと思われる。
翌年2月27日、北京で日本軍から北支カトリックミッションに見舞金9000円、寄付金1万5000円が、同年4月6日には外務省から、正定のカトリックミッションを庇護下に置いていたフランス政府に、物的損害に対して1万5000円、寄付金1万円、その他1000円が手交されたことを示す書類も保存されていた。
1937年、38年は日本軍が南京を攻略した年だ。中国国民党軍は国の治安を十分に守れず、その間に日本軍は攻め入った。そのような国情をカトリック系の新聞も報じていた。萩生田氏が指摘した1937年11月12日の「カトリック・ヘラルド」紙には次のように書かれている。
「日本軍が正定を占領した1937年10月8日以前にも中国では山賊や赤軍による外国人司教等の誘拐が繰り返し起きていた。日本軍は地元の志願警察の助けを借りて、山賊を阻止するための網を張り巡らせる等していた」
萩生田氏が語る。
「これは正定事件後の報道ですが、日本軍は現地警察と協力して治安維持に貢献していたと、カトリックの新聞が好意的に書いています。一方さまざまな資料を見ても、日本軍が女性200人を要求した事実は見当たりません。9人の列福に日本政府は何の異存もありませんが、顕彰の理由に関しては歴史の事実を正しく反映していただけるように日本側の資料も提供したいと思います」
中国が同事件を「慰安婦」事件であるかのように捏造し、反日の立場で利用しているのは明らかだ。世界に強い影響力を有するバチカンの権威を中国式に政治利用することは、バチカンにとっても受け入れ難いだろう。
今回、日本政府の対応は素早かったが、列福の手続きは2014(平成26)年に開始されている。この間外務省は手をこまねいていたのか。
2月16日、ジュネーブで国連の女子差別撤廃委員会の対日審査会合が開かれ、慰安婦問題で日本政府が「強制連行は確認できなかった」と初めて反論した。だが、性奴隷、20万人、強制連行などの決め付けで日本を非難したクマラスワミ報告書が出された20年前、外務省は何ら反論していない。
外交上の政治的配慮が働き反論できなかったのか。正定事件についても外務省に即応態勢は、全くない。歴史についての真実の情報発信を外務省に頼っていては、日本は生きていけないほどの不名誉な地平に突き落とされてしまう。
今回、正定事件に関する情報発信が素早かったのは、繰り返すが官房副長官の萩生田氏を軸とする官邸主導だったからだ。ならば、首相直属の情報発信本部をぜひ設置し、担当大臣を任命し、その下に多くの専門家、研究者、翻訳者の一群を揃えて、政治主導で情報発信大国となるべきだというのは、誰が考えても当たり前のことであろう。
(『週刊ダイヤモンド』2016年2月27日号の記事に加筆修正)