1994年6月4日号 賀来龍三郎キヤノン会長

 1962年、当時キヤノンの企画課長だった賀来龍三郎(1926年5月19日~2001年6月23日)は、同社の第1次長期(5カ年)経営計画の策定に携わった。当時のキヤノンはカメラの売り上げが全体の95%を占めていたのだが、賀来が策定した計画は、カメラ事業を80%まで縮小してカメラ専業のイメージを一新し、事業の多角化を進めるというものだった。

 精機光学研究所(現キヤノン)の創業メンバーで、当時の社長だった御手洗毅は、賀来の提案を受け入れ、電卓や複写機などカメラ以外の事務機分野に注力していく。

 創立30周年となる67年の年頭あいさつで、御手洗は「今年において会社繁栄の基礎を築くためには、右手にカメラ、左手に事務機・光学特機を振りかざし、しかも輸出を大いに伸ばしていかなくてはなりません」と宣言。その後、「右手にカメラ、左手に事務機」は同社のスローガンとなる。69年には社名を「キヤノンカメラ」から「キヤノン」に変更し、多角化路線をより鮮明に打ち出した。

 74年、御手洗に代わり、同じく創業時からのメンバーだった前田武男が2代目社長に就くも、77年に前田が死去、代わって社長に就任したのが51歳の賀来だった。賀来は事業の多角化に加え、グローバル企業構想を打ち出し、欧米で事務機の現地生産を開始。業績を拡大させた。こうした功績から「キヤノン中興の祖」と呼ばれる存在となる。

 賀来は89年に会長に退くと、経済同友会副代表幹事や経団連常任理事として、より高い視座から、企業が果たすべき社会的責任を訴える機会が増えた。「これからは戦後の政策の裏返しをやればいい。今までは官主導だったから民主導へ。中央集権で来たから次は地方分権へ。難しいことではない」というのが、賀来の持論だった。

 今回のインタビューは、すでに会長に退いた94年の「週刊ダイヤモンド」に掲載されたものである。賀来によると、企業の果たすべき役割としては、まず「社内の人間」を幸せにしなければならない。次に「株主、消費者、下請けなど自分が所属するコミュニティー」に貢献しなければならない。さらに「国」に対して、そして「世界」に対して貢献する企業でないと本物ではないと語っている。

 そして最後に、企業の5番目の役割として「世直し」を挙げている。官僚に任せきりでは駄目で、「官僚たちの行政がやっていることを、われわれは『企業だから関係ない』と見ているだけではなく、むしろわれわれが彼らを啓蒙し、引っ張っていく役割がある」と、記事の中で強調していた。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

経営者と従業員の差別がない
運命共同体的な企業を目指す

──創立50周年を迎えた際に、キヤノンという企業が向かうべき方向を再度検討されましたか。

1994年6月4日号1994年6月4日号より

 この区切りの時期を第2の創業期と考え「グローバル企業になろう」ということを社是に取り入れました。社長に就任した10年前には、優良企業になろうという夢がありまして、そのために企業たるものどうあるべきかを具体的に考えたことがあります。

 企業を時代の流れに沿って分析すると、第1段階が資本家が労働者を搾取する、マルクスが言うところの資本主義の会社です。そして第2段階が運命共同体的な企業であり、キヤノンはそろそろこの方向に進むべきではないかと判断しました。

──具体的にはどんな企業像になるのですか。

 一言で言うと経営者と従業員の差別がない会社のことです。昔の重役は自分はたくさん金を取るけれど、従業員には少ししかやらないなんてことがよくありました。しかし、こんな企業は駄目だと思いましてね。この運命共同体的企業の場合は、組合活動があってもまったく邪魔にならないし、組合側もそれを理解してくれまして、共に生産性を上げることに全力投球してくれるんです。

──以後、キヤノンは運命共同体的企業として生産性を上げてきたと?

 そうです。でもこれだけでは不十分でした。企業は、社内の人間だけが幸せでも駄目なんだと気付いたんです。やはり株主、消費者、下請けなど自分が所属するコミュニティーに貢献する企業でないといけないわけで、これを“第3種の企業”と銘打って進めてきました。

 しかし、これでもまだ具合が悪いんです。日本のコミュニティーの場合、一番大きいのが「国」ですよね。だから日本のために一生懸命やっていると、アメリカやヨーロッパと付き合うときに経済摩擦が起きるんです。だからコミュニティーだけで満足してもいられない。となると、次にはグローバルに貢献する企業でないと本物ではないとなるわけです。