織田信長左・山崎の戦いの位置(京阪地方内)の地図:Soren Bradley/Wikimedia Commons(CC BY 4.0、一部トリミング)、右・明智光秀像:本徳寺蔵/Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

本能寺の変のわずか11日後、明智光秀は山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ、天下取りの夢は潰えました。しかし、本当に最初から勝負は決まっていたのでしょうか。地図を見れば、決戦の地・山崎はむしろ光秀に有利な地形でした。さらに、最新資料からは秀吉が開戦時に現地へ到着していなかった可能性も浮上しています。それでも光秀が敗れた理由とは何だったのでしょうか。(古城探訪家 今泉慎一/執筆協力 青栁智規)

決戦の場所「山崎」では
地の利は光秀にあった

 明智光秀が、主君の織田信長を討った本能寺の変。1582(天正10)年6月2日に起きたこの日本最大のクーデターは、戦国時代の転換期として知られています。しかし、光秀の天下はわずか十数日。6月13日の山崎の戦いで羽柴秀吉の軍勢に完敗を喫した光秀は敗走し、落ち武者狩りに遭いあっけなく散りました。

 ただ、山崎の戦いで最初から光秀が劣勢だったかというと、そうとも言い切れないのです。

 山崎の戦いで明智、羽柴両軍は、円明寺川(現在の小泉川)を挟んで対峙(たいじ)します。光秀が決戦の場所に山崎を選んだのは理由がありました。周囲を山地に囲まれている京都は、外部からの進入路が限定的。中でも山崎は最も狭い場所で平地の幅が300メートル余りしかなく、羽柴軍の進路を限定しやすかったと考えられます。

山崎付近を流れる淀川。右奥が天王山。右岸の平地が両軍の最前線だった山崎付近を流れる淀川。右奥が天王山。右岸の平地が両軍の最前線だった 撮影:今泉慎一(風来堂)
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 光秀の作戦は、地理的に優位に立ち、天王山と淀川に挟まれた狭路を進んでくる羽柴軍を討つというものでした。光秀は勝龍寺城を背に本陣を置き、右腕の斎藤利三を中心に津田信春らを前線に配した陣形を組みます。