17歳の女子高生・児嶋アリサはアルバイトの帰り道、「哲学の道」で哲学者・ニーチェと出会います。
初対面のニーチェにいきなり、「お前は、道徳に縛られているのだ! 」と言われてしまうアリサでしたが、どんどんニーチェの話にひきこまれてしまうのでした。
ニーチェ、キルケゴール、サルトル、ショーペンハウアー、ハイデガー、ヤスパースなど、哲学の偉人たちがぞくぞくと現代的風貌となって京都に現れ、アリサに、“哲学する“とは何か、を教えていく感動の哲学エンタメ小説『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』。今回は、先読み版の第4回めです。

畜群道徳……?なんか社畜っぽい響きだね

 私は、夜空を見上げ、これまで経験で当てはまるようなことがあったかを考えていた。群青色の夜空に、うっすら白い桜色が映えている。

「うーん、そうだね、いままでにあるかも。
 みんながいいと言ってるものは、それだけ賛同者が多いから、それがいいんだろうなって思うことはあったかな」

「なるほど。具体的にどんなことがあった?例えば、会議で多数決を採ったとして、どちらがよいと思うかに手を挙げる場合、どっちがいいかわからなくても、手を挙げる人が多そうな意見に、思わず手を挙げてしまったような経験とかはあるか?」

「うん、そうだね。学園祭の出し物を決める時とか、そうだったかも。
 学園祭でメイド喫茶をしたんだけど、多数決を採る時に、周りの人の様子を見て、賛同者が多そうなメイド喫茶に手を挙げたの、思い出した」

「そうか。こだわりがないのに“みんなが手を挙げてるからこれがいいものなのかも”と錯覚してしまう、ということはよくあることなんだ。
 そのケースでいくと、心の底から“メイド喫茶がいい!”と思っている人間がどれだけいたと思う?」

「どうだろ、ちょっと興奮気味の男子は何人かいた気がするけど……」

「なるほど。大多数の意見の中でも“メイド喫茶がいい!”と心底思っている人間と、“みんなが手を挙げている案がいい”と思っている人間に分かれているのだ。
 つまり“みんなが手を挙げている案がいい”と思っている人間は、賛同者が多いのであれば、別にメイド喫茶でなくてもいいのだ。
 女装喫茶でも、お化け屋敷でも、賛同者が多い意見がいいのだ。例外はあるだろうがな、例えばスクール水着喫茶は嫌だとか……」

「それは嫌だよ!ていうか取り締まられるよ、それ!」

「まあ、冗談はおいておいて、このように多数の賛同を得ている意見が“よい”と反射的に思ってしまうケースは珍しいことではないのだ。
 私はそれを“畜群道徳”と呼んでいる」

「畜群道徳……?なんか社畜っぽい響きだね」

「社畜の中にもいると思うぞ。
  “みんなが、受け入れている条件だから、おかしくないんだ”と、みんなと同じこと=よいことだと思いこむと、間違ったものであっても、よいと思いこんでしまうことはあるだろう。
 ブラック企業にいながらも、その会社の条件や勤務状態に疑問を持たずに逆にやる気を出す人もいるだろう。それこそが、まさしく畜群道徳の骨頂だろう」