被災地で「世俗」を見聞きすると、
人間のたくましさを感じる
名取市役所を訪れたとき、私は二人の年配の女性の感動的な再会シーンを目にしました。二人の会話を、少し近寄って聞いてみました。
「よかった、生きていたのね」
「あの人はどうしたの?」
「彼女は流されちゃったのよ」
生存したことの喜びから近所の人の安否確認に会話は移り、やがてこんな話になっていきます。その会話を聞いて、人間はつくづくたくましいと感じました。
「○○さんのところは、あのとき、ヨメだけさっさと逃げたんだから!」
「あそこのヨメは、自分の宝石だけはちゃっかり持って出たらしいのよ!」
こんな非常事態でも、嫁と姑の関係から普段の近所の立ち話のような会話をしている二人を見て、思わず笑いそうになりました。しかし、一方ではとても健全だと感じたのです。
こんな非現実的な事態が起こっているなかでも、二人の女性の意識の中では、嫁と姑の関係が厳然と存在していて、日常に混じり込んでいます。震災があっても、姑は嫁の態度に厳しい。ちょっと滑稽にみえるこういう世俗的な日常は、実はこころの健全さでもあるのです。
「避難所で、被災者同士が物を奪い合った」
「炊き出しの列に、一人で何回も並んでいる」
「あの人は、若い女性にばかり声をかける」
当事者は腹立たしいかもしれませんが、そういう話を聞くと少しホッとします。
非常事態だからと言って、このような世俗的な態度を封印してしまう空気のほうが、逆に危険を感じます。現実を受け入れ、こころが立ち直って日常に戻るまでのプロセスが、うまく機能しないのではないかと思ってしまうからです。
これは、支援する側にも言えることです。
私が知る限り、医療支援などで被災地に入った人たちは、緊張感、高揚感などによって100パーセント気が抜けない状態が続いています。いわゆる「あそび」がないため、逆に「燃え尽きて」しまわないか心配です。