つまり、お葬式は遺族の悲しみを和らげる作用があると私は考えています。その最も大きな要因として、お葬式の世俗的な面を挙げることができます。
具体的に言うと、伊丹十三監督が『お葬式』という映画で描いた、むしろ滑稽にも思える世界です。
「故人の戒名の値段をいくらにするか」
「会葬者に出す弁当は松竹梅どのランクにするか」
「香典が少ない人をケチだと感じてしまう」
島田さんの『葬式は、要らない』では、お葬式は世俗的だからいらないという趣旨のことが書かれています。しかし、むしろ私はその世俗性こそが大事だと思います。
家族が亡くなって悲しみにくれているというのに、白髪が恥ずかしいからといって染めようとしたり、喪服が似合うかどうかを気にしたり、ネックレスに付いている真珠の大きさに見栄を張る。あるいは、悲しいときにそんな些細なことに目を向けてしまう自分がおかしい。
こころに「どうでもいい」世俗性が入り込むことで、悲しみが少しだけトーンダウンすると思います。さらに言えば、弁当は1000円ではなく750円のものにしようと考えるこころが少しでも残っていることが、のちのちの悲しみを癒すクッションとしての役割を果たすのです。
今回の震災は、現実離れした想定外の悲劇が起きています。
これまでの日常が入り込む余地もないほどの甚大な被害が出ています。立ち直れないほどの悲しみを抱えて、被災者の方々は日々を懸命に生きています。
私は、だからこそ世俗性が混じり込んできたほうがいい、悲しみだけに浸ってしまう状況を作らないほうがいいと思います。
「いかがいたしましょうか? 戒名はおいくらのものにしましょうか」
「お料理は、竹よりも松の方が豪華に見えると思いますが」
葬儀屋さんとのそんなやり取りに「いやだね、こんなときまで金の話かい」などと悪態をつくことで、こころのバランスをかろうじて維持しておくことができるのではないかと考えています。