私自身、たった数日しか被災地に入っていないのに、帰ってきてから目にするのんびりとした日常に対して、一瞬「これは嘘の世界だ」と感じてしまいました。すぐに考えを改めることができましたが、なかなか元の世界に戻れないという人がかなりの数にのぼっているのも事実なのです。
どんなときでも、
世俗を不謹慎だと思わなくていい
どんなに大きな災害に遭っても、人はいつか日常に戻らなければなりません。
そのとき、悲しみや苦しみの極限から一気に日常に戻ることはできないと思います。非常事態のなかにも世俗や日常がパッチワークのように存在しているほうが、日常にソフトランディングしやすいのではないでしょうか。
震災以降、巷には不謹慎という言葉が溢れました。
この言葉が出てくるということは、非常事態では世俗的なことを排除しなければならないというメカニズムが働いているような気がしてなりません。
何でもないときであれば「あの子可愛いね」という言葉を聞いても誰も問題にしませんが、被災地に入ったボランティアが「あの子可愛いね」と言ったら、一斉に「不謹慎だ」というバッシングを浴びてしまいます。
冷静に考えれば、人間には100パーセント良い人も、100パーセント悪い人もいないことはすぐにわかります。誰もが、心の中では人に言えないことを思い浮かべながら生きているものです。もしも心の声をすべて文字にしたら、誰もが不謹慎極まりない人間とされてしまうでしょう。
もちろん、状況を考慮する必要はあります。そんなことを言っている場合ではないという局面もあります。しかし、そういうなかでも少なからず世俗が入り込む余地があるはずだと私は考えています。
お葬式で、正座していて、足がしびれて転んでしまった参列者。
怒られている部下が叱っている上司の鼻毛に目が行ってしまう。
妻の妊娠に立ち会いながらも、見たいテレビ番組が気になる。
こういった世俗的な場面が顔を出す瞬間に笑える余裕が大切です。
こんな時期だからこそ、世俗的なことを不謹慎と思わなくてもいいと思います。世俗的な日常を封印しなくても、打ち消さなくてもいいのです。
むしろ、こんなときでも自分のこころには世俗が残っていると前向きに考えることができます。世俗が残っていれば、いまがどんなに辛くても、震災前の日常にスムースに戻れる可能性も十分あると思います。