「私も、父と一緒で、人生をゼロからやり直すことになるわ。ゼロからじゃなくて、マイナスからの出発ね……。だから、あなたは私のことに縛られないで」
「何が言いたいんだ?」
立ち止まった幸一が、慶子に向かって大声を出した。彼女は気圧されて目を伏せた。
「だから、こんな私があなたの人生の邪魔をしては……」
「慶子」幸一は、初めて彼女を呼び捨てにした。
「人生にゼロもマイナスもないさ。今は大変な時だろうけど、それをマイナスだなんて誰が決めるんだ? 債権者か、裁判所か、彼らは金勘定の算定はするだろうが、君の人生を決めるのは君自身だろ?」
慶子が肩を震わせる。幸一からは見えない、俯いた彼女の顔から幾筋かの水滴が落ちてアスファルトに染み込んでいく。力を込めて彼女の肩を抱いた。
「上手く言えないけれど、人生にマイナスなんてないと思うよ。僕だって、引きこもりだった頃の自分を後悔することはないし、却って貴重な経験だったと自信を持って言えるようになった。それは、君と出会えたからなんだ。人生は前向きに生き続けるだけで、足し算が加わっていくだけのはずさ。絶対マイナスなんてないよ」
幸一の腕の中で、慶子が小さく頷いた。
「今は、お父さんを支えることが何よりも大切だと判っているよ。だから、僕は待っている。君が落ち着いて、再び僕のところへ戻って来てくれるまで待っている。いいね」
慶子が今一度小さく頷いた。
(つづく)