大震災以降、改めて問い直され始めた
「一人でも生きていける」という誤認
東日本大震災を契機に、人々の「絆」が脚光を浴びるようになった。人と人とが協力し合い、助け合う。そのことの力強さ、頼もしさ、温かさが、どれほど社会の中で生きるために大切かを、未曾有の危機をもって我々は再認識することになった。
社会が便利になると、我々は「1人でも生きていくことができる」と誤認するようになっていく。
たとえば食事。誰かが料理をつくってくれないと、まともな食事をとることができなかった時代は遠のいた。コンビニに行けば、自分の生活時間に合わせて好きな食事をとることができる。「いったい何時だと思っているの!」などという文句を誰からも言われずに、好きなものを食べることができる。
たとえば情報。誰かに直接問い合わせたり、話し合ったりしないと情報がとれない時代ではない。インターネットを使えば、何時であろうと、どこに行っていようと、どんなことであろうと、好きなときに好きな情報を得ることができる。今、この瞬間にワンクリックするだけで、あなたはこのコラム以外の情報を入手できる。
そうした便利さが、今や社会のあらゆる場面で、当たり前のように提供されている。そのことで、我々はややもすると、他の人の存在のありがたさを忘れがちになる。
他人に関与されなくても、しなくても、自分1人で十分回っていくと誤認する。
この誤認が多くの人に広がれば広がるほど、フリーライダーは増えていく。他人に対する感謝力の希薄化、喪失は、フリーライダー化の第一歩であるからだ。
本コラムでも繰り返し述べてきたように、最初からタダ乗りを前提とする悪意のフリーライダーだけが、会社の中でフリーライダー扱いされているわけではない。人が協力をしてくれているのに、感謝の気持ちを伝えないような人も、「あの人は、おいしいところだけ持っていくフリーライダーだ」などと認識される。