第一章

 森嶋は研究所を出て、切っていた携帯電話の電源を入れた。

 留守番電話が10件以上入っている。半分は山根課長補佐からだ。内容は分かっているので無視することにした。今日はアメリカからの友人につき合うことになっている。ウソはない。考えた末の休みの理由だ。

 メモリーを出してしばらく見つめていた。

 迷ったが優美子の番号を押した。

 一度目は呼び出し音は聞こえるが、出る気配はなかった。しばらくしてかけ直すと、留守番電話になっている。

 そのまま電車に乗り、自宅近くの駅で降りてマンションに向かって歩き始めたとき、携帯電話が鳴り始めた。優美子だ。

〈アメリカのお友達とは裸の付き合いなのね。この寒いのに〉

 通話ボタンを押すと同時に聞こえてくる。

「謝るよ。彼はハーバードでの友人だ。昨夜遅く、というより今日になって早々日本について、うちで仮眠して仕事に行った」

〈言い訳する必要はないわ。私にはどうでもいいことよ〉

「事実を言ってるだけだ。絶対におかしな関係じゃない」

〈そんなにむきにならないで。私は気にしないって言ってるでしょ〉

 優美子が笑いをこらえているのに気付いた。

「知ってるのか」

〈ただの女好きじゃなかったわね。一緒に総理に会ったんでしょ〉

「誰に聞いた」

〈国交省の友人。省内では噂だそうよ〉

「通訳を頼まれた。たった10分の通訳。それだけだ」

〈あの男は誰なの。たとえ10分でも総理に会える人って〉

「国交省ではどう言ってる」

〈若いのが暴走してるって。あなたのことよ。上の人たちはかなり慌ててる。でも、本当のところ何があったの〉

 優美子の声は真剣なものに代わっている。

「俺だって分からない。通訳を頼まれたのも、きみが帰ってからだ」

〈大統領特使は総理に何を話したの。あなたが通訳した内容よ〉

 森嶋は言葉に詰まった。ロバートは内容を知られたくないために森嶋を使ったのだ。しかしこれでは、知れ渡るのは時間の問題だろう。

「きみの用はなんだったんだ。早朝から」

 今度は優美子が黙る番だった。しかしすぐに声が聞こえた。

〈あなたが話した地震についてもっと知りたかったのよ。事実なら、放っておけないことだから〉

「俺もたった今、高脇に会ってきた。気になることがあってね」

〈ねえ、これから会えない。いま、どこにいるの〉

「今日はまずいだろ。きみまでおかしな眼で見られる。また連絡する」

 森嶋は携帯電話を切った。

 すぐにまた携帯電話が鳴り始めた。優美子がかけ直してきたのだが、無視してポケットに入れた。

 もう一度、ロバートが持ってきたレポートを読み返してみよう。なぜ、彼がこのタイミングで森嶋に会いに来たのか。そして、通訳を頼んだのか。喉の奥に何か引っかかるものがある。

 森嶋はマンションに向かう足を速めた。