第一章
4
森嶋は研究所を出て、切っていた携帯電話の電源を入れた。
留守番電話が10件以上入っている。半分は山根課長補佐からだ。内容は分かっているので無視することにした。今日はアメリカからの友人につき合うことになっている。ウソはない。考えた末の休みの理由だ。
メモリーを出してしばらく見つめていた。
迷ったが優美子の番号を押した。
一度目は呼び出し音は聞こえるが、出る気配はなかった。しばらくしてかけ直すと、留守番電話になっている。
そのまま電車に乗り、自宅近くの駅で降りてマンションに向かって歩き始めたとき、携帯電話が鳴り始めた。優美子だ。
〈アメリカのお友達とは裸の付き合いなのね。この寒いのに〉
通話ボタンを押すと同時に聞こえてくる。
「謝るよ。彼はハーバードでの友人だ。昨夜遅く、というより今日になって早々日本について、うちで仮眠して仕事に行った」
〈言い訳する必要はないわ。私にはどうでもいいことよ〉
「事実を言ってるだけだ。絶対におかしな関係じゃない」
〈そんなにむきにならないで。私は気にしないって言ってるでしょ〉
優美子が笑いをこらえているのに気付いた。
「知ってるのか」
〈ただの女好きじゃなかったわね。一緒に総理に会ったんでしょ〉
「誰に聞いた」
〈国交省の友人。省内では噂だそうよ〉
「通訳を頼まれた。たった10分の通訳。それだけだ」
〈あの男は誰なの。たとえ10分でも総理に会える人って〉
「国交省ではどう言ってる」
〈若いのが暴走してるって。あなたのことよ。上の人たちはかなり慌ててる。でも、本当のところ何があったの〉
優美子の声は真剣なものに代わっている。
「俺だって分からない。通訳を頼まれたのも、きみが帰ってからだ」
〈大統領特使は総理に何を話したの。あなたが通訳した内容よ〉
森嶋は言葉に詰まった。ロバートは内容を知られたくないために森嶋を使ったのだ。しかしこれでは、知れ渡るのは時間の問題だろう。
「きみの用はなんだったんだ。早朝から」
今度は優美子が黙る番だった。しかしすぐに声が聞こえた。
〈あなたが話した地震についてもっと知りたかったのよ。事実なら、放っておけないことだから〉
「俺もたった今、高脇に会ってきた。気になることがあってね」
〈ねえ、これから会えない。いま、どこにいるの〉
「今日はまずいだろ。きみまでおかしな眼で見られる。また連絡する」
森嶋は携帯電話を切った。
すぐにまた携帯電話が鳴り始めた。優美子がかけ直してきたのだが、無視してポケットに入れた。
もう一度、ロバートが持ってきたレポートを読み返してみよう。なぜ、彼がこのタイミングで森嶋に会いに来たのか。そして、通訳を頼んだのか。喉の奥に何か引っかかるものがある。
森嶋はマンションに向かう足を速めた。