創業以来、13期連続で増収増益を達成しているエス・エム・エス。同社を立ち上げ、東南アジアを中心に次々と複数の事業領域の開拓を進めている諸藤周平さんに、エス・エム・エスの創業秘話や、REAPRAでの活動についてお話を伺っていきます。
(ライター:福田滉平)

不要な資金調達でマジョリティを失う

事業を成功させた「何者でもない」というコンプレックス【諸藤周平さんに聞く Vol.2】諸藤周平(もろふじ しゅうへい)
1977年生まれ。九州大学経済学部卒業。
株式会社エス・エム・エス(東証一部上場)の創業者であり、11年間にわたり代表取締役社長として同社の東証一部上場、アジア展開など成長を牽引。同社退任後、2015年より、シンガポールにてPEAPRA PTE.LTD.を創業。アジアを中心に、数多くのビジネスをみずから立ち上げる事業グループを形成すると同時に、ベンチャーキャピタルとして投資活動もおこなう。個人としても創業フェーズの企業に投資し多くの起業家を支援している。

朝倉祐介(シニフィアン共同代表。以下、朝倉):創業当初は高齢者住宅の流通を目論んでいた諸藤さんですが、その後、人材のマッチング業に至ったのは、どうしてだったのですか?

諸藤周平氏(以下、諸藤):会社を辞めて独立したタイミングでもう一回、何を事業にするか、1ヵ月かけて決めようとしたんです。その時に出たアイデアの1つが人材紹介ビジネスだったんです。
シルバービジネスでの事業機会を探っていたところ、高齢者住宅専門の土地情報のマッチング会社が「人が足りていない」と言っていたので、人材業を手伝うのがいいじゃないかと考えました。その時、メンバーが6人いたのですが、半数ずつに分かれて土地情報のビジネスと人材紹介ビジネスについて、それぞれ1ヵ月間をかけて調査をしてみることにしました。すると、3日もしないうちに、人材のほうがいいということがわかったのです。
土地情報は一件手掛けて数億円とリターンも大きい分、リスクも高いので、結局、他の事業をやらなければならない。一方で、人材紹介は一回のリターンは低くても取引回数が多い。一旦は、人材紹介がいいんじゃないかという結論に至りました。

朝倉:具体的にはどのように人材紹介の事業を始められたのでしょうか?

諸藤:当初は方法論すら、ネットなのか、リアルなのか、何も決まっていなかったのですが、介護業界は人が足りないので職種も特定せず、とにかく集客して事業者に何かしらの方法で紹介する、ということだけは決めていました。法人向けに営業したところ、ニーズは強いので、どんどん契約を取ることができました。
契約していく中で分かったのですが、求人広告で得られる収入と、人材紹介で得られる収入では、人材紹介のほうが圧倒的に高かったんです。加えて、職種で見ると、ケアマネージャーは70万円のフィーをいただけて、介護職がざっくり7万円。かかる工数は変わらないのに、原価が同じで出口の売上が数十万円違いました。
そこで、まずはケアマネージャーに集中して人材紹介をやったらいいんじゃないかと考え、1ヵ月くらいやってみたところ、キャッシュフローが回り始めました。ところが、その年の10月ごろ、上場やファイナンスの知識がなかったために、資本政策で相当やばいことをやってしまいました。そもそもキャッシュフローは回っていて実は一切お金はいらなかったのに。

朝倉:「やばいこと」というと、どういった?

諸藤:介護事業を知るために、介護で上場した会社に電話して「ライセンスを頂けたら、御社よりも絶対高い利益率で回すので、やらせてください!」という問い合わせをしていたんです。そうしたら「介護事業はやらせてあげないけど、お金は出すよ」と言ってくださる企業があったんです。
もらえるものはもらっておいたほうがいいのかなと思って、資金を提供してもらったのですが、実は当時の会社の資本金が1000万円のときに、その会社から転換社債で3000万円のお金を出してもらって、マジョリティを失うという、危険なファイナンス行為をしていたんです。そのことに気付いたのも、「これは、一期で締めたら上場できるんじゃないか?」と思って、監査法人に聞きに行ったときでした。「そもそも、あなた、(持ち株の)マジョリティないんですよ。分かっていますか?資本政策はどうなってるんですか?」と言われ、初めて転換社債の意味を知ったんです。
その介護会社は、サポートしようと100%、善意でお金を出してくだっていたので、実際にそのあとに「マジョリティを持ちたいので」と言ったら、社債を買い戻しさせてもらえたのでよかったのですが。ファイナンス上はボロボロでした。

事業を成功させた「何者でもない」というコンプレックス【諸藤周平さんに聞く Vol.2】