東南アジアを中心に、次々と複数の事業領域の開拓を進めている諸藤さんに、エス・エム・エスの創業秘話、REAPRAでの活動についてお話を伺うインタビューの第4回(全4回)。
(ライター:福田滉平)
複雑なことを複雑なまま管理すること
1977年生まれ。九州大学経済学部卒業。
株式会社エス・エム・エス(東証一部上場)の創業者であり、11年間にわたり代表取締役社長として同社の東証一部上場、アジア展開など成長を牽引。同社退任後、2015年より、シンガポールにてPEAPRA PTE.LTD.を創業。アジアを中心に、数多くのビジネスをみずから立ち上げる事業グループを形成すると同時に、ベンチャーキャピタルとして投資活動もおこなう。個人としても創業フェーズの企業に投資し多くの起業家を支援している。
朝倉祐介(シニフィアン共同代表。以下、朝倉):REAPRAは東南アジアで新しい産業を立ち上げることをミッションにしているそうですが、エス・エム・エスをお辞めになったあと、こちらはどういった経緯で立ち上げられたのでしょうか?
諸藤周平氏(以下、諸藤):自分で作ったエス・エム・エスを辞めることを決め、次にやることを考えていたのですが、考えても整理がつきませんでした。「このまま、ズルズルと会社に残ってしまうとヤバイな」と思ったので、とにかく、物理的に戻ってこれないように体を遠くに移動させるしかないと、シンガポールに飛び、2年かけてやりたいことを見つけようと考えました。
最初のうちは、VCをやってみようと思ってたんですけど、東南アジアのベンチャー投資でファイナンシャルリターンを取ろうとすると、究極は、優秀な人がやっているできたばかりの企業にばらまくか、ソフトバンクやアリババが買ってくれそうな会社に目をつけて投資するブローカーのような仕事のどちらかという状態になってしまいます。
自分は、複雑なことを複雑なままマネージすることに知的好奇心があり、それを一貫して実践してきました。ブローカーのような単純な仕事は、最もやりたくないし、できないことでした。
エス・エム・エスを去ってからVCを始めることもままならず、「自分は一体何がしたいんだっけ?」と自意識ばかりが高くなりすぎて、痛々しい人になってしまい、なかなか答えが出せませんでした。
50歳を超えて全く新しい事業を創っていくのは厳しいと考えているので、ゼロからチャレンジできるのは、あと十数年。そう考えると、なかなか一歩を踏み出せなくなっていたんです。
朝倉:日本や欧米ではなく、東南アジアを次の舞台に選んだのはどうしてだったのでしょうか?
諸藤:兼ねてから考えていた、複雑なことを複雑なまま管理すること。この複雑性という点では、東南アジアという土地柄は合致してるなと思ったんです。
肝心なのは、東南アジアで何をやるか。辞めた当初は、インパクトは追わない事業をしようと考えていました。スケールは追わないと。しかし、プレイヤーとしては残り十数年と決めて、新しく始めたことが、仮に3年後にはマーケット構造の壁で成長しなくなったとしたら、「俺の3年分の時間を返せ」と思うでしょうし、結局は後悔してしまうだろうと思ったんです。つまり、頭で考えている以上に、体にインパクト思考が染みついていて、小さくてもいいとは全く思っていなかったのです。
だったら、事業のN数を30くらいにすれば、一定の成功確率で、将来大きくなるけど複雑性が高く、どうなるか読みづらい市場の中から良い事業を引き当てる道筋が見えるんじゃないかと思ったんです。
東南アジアは、マクロでは年5-6%伸びています。伸びるマーケットで30個も事業をやって、一発も当たらなければ相当なアホなので、それだったら、さすがに納得できます。
小林賢治(シニフィアン共同代表。以下、小林):「複雑性」という言葉が諸藤さんのキーワードになっていますが、この「複雑性」というのは、諸藤さんにとってはどういった定義なのでしょうか?
諸藤:定義はすごくシンプルで、関与変数が多く、事前予測が難しいことだと思っています。
世の中に複雑性をマネージしたいという組織はほとんどないのでしょうが、僕としては複雑性をマネージしたいと思っています。長い時間軸で見ると最終的には何かの形にはなるものの、事前には仕上がりが読めず、やりながら経験学習することを要する事業のほうがいいと考えているのです。
たとえば、関与者の変数が多くて、行政の方針一つで事業の方向性が変わる可能性があるとか、消費者のリテラシーが影響するなどです。その最終形を時間軸で現在に戻すと、何かしらキャッシュフローが回る領域があり、そこで事業を行いながらインサイトを得て、複雑性を時間軸の中でコントロールしながら、より大きな塊の事業に育てていくということに挑戦したいのです。