日本には「共通の正義」は存在しない 

 このようなムラでは、ムラの善悪を決める人物とそれに従う村民の関係になり、山本氏が指摘した「一君万民」の世界となります。

 ムラには独自の善悪基準(前提)があり、別の表現をすれば、ムラごとに「独自の物の見方」を持っていることになります。この物の見方が「情況」だと考えると、どのムラに所属しているかで、善悪の規定が変わる「情況倫理」にならざるを得ません。

「情況」=特定の物の見方
「情況倫理」=物の見方に影響を受ける倫理

「一君万民・情況倫理」の世界は、集団倫理の世界である。この世界は結局、いくつかの集団に分裂し、その集団の間には、相互の信頼関係は成り立ち得なくなる(*3)。

ムラごとに変わる倫理観

 日本のムラ社会では、どの集団に、どんな形で所属しているかによって、倫理基準が変わってしまうのです(もちろん自分の倫理を保って流されない個人も存在します)。

 では、ムラ社会の日本に欠けているものとは何でしょうか?

 異なるムラを横断的に貫くことができる、「共通の社会正義」です。

 ムラを横断的に貫く共通の社会正義が日本に確立されると、ムラごとの主張が衝突したときに、どちらのムラの主張がより正しいかをその社会正義から判定できます。

 ところが、日本社会はこの横断的な社会正義を構築するのではなく、別の形で複数のムラの問題を解決してきたと、山本氏は指摘しています。それが「一君万民」の支配体制を横に広げていく世界です。

(注)
*3 『「空気」の研究』 P.141