ウソをつくことが、正直者だとされるムラ社会の歪み 

 山本氏の「一君万民」と類似の指摘をしている書籍があります。天谷直弘氏の『叡智国家論』です。

 天谷氏は、1970~80年代に、日米貿易協議などで活躍した日本の官僚で、歴史研究家の一面を持ち、複数の著作を残しています。

 天谷氏は、歴史上日本では、二つの勢力が衝突した際に、勝った側が正義であるという結果主義とは別に、もう一つの方式を採用してきたと指摘します。

 義と不義とを分かつもう一つの簡便な方法は、「お墨付き方式」である。交戦当事者よりも高い次元の存在者を認め、その「お告げ」によって、どちらの側に正義が存在するかを決める(*4)。

 学校なら、生徒同士の衝突では、どちらが正しいかは先生が決めるイメージです。会社であれば、社長のお墨付きがあるほうが、正義というわけです。

 平家と源氏の戦いなどでも、武士は争って天皇のお墨付きを求めました。これは幕末、1800年代の日本の内戦でも同様です。

 彼らが院宣のたぐいを欲しがったのは、それをもらった側に義があるという共通の意識が、当時の日本社会に存在していたからであろう(*5)。

 正義をよそに、まずは当事者よりも高い次元の存在からの「お墨付き」をもらうことに執心する。このような社会慣習は、忖度などの行動を日本社会に誘発しやすいのです。このようなムラ社会では、ムラ独自の善悪に沿ったウソをつくことが正直者とされる一方で、公共の正義や公平性、社会全体への合理性をことごとく破壊してしまうことになるのです。

 ムラごとに個別の善悪の基準(倫理)があり、その優劣基準を取り決めているのが「影響のより強い一君」であれば、争ってお墨付きをもらおうとすることも頷けます。

 山本氏はこの点について少し難しい言葉で次のように触れています。

 情況倫理の集約を支点的に固定倫理の基準として求め、それを権威としそれに従うことを、一つの規範とせざるを得ない(*6)。

 情況倫理、つまり異なる「物の見方」を持つムラ同士が張り合う場合、どちらが正しいかを決めるため、それぞれの物の見方から超越した象徴をつくり、象徴としての権威からのお墨付きを得た側が、正義だとしてきたのです。

ムラ社会では生きるために空気を読む

 日本では集団や組織、利権団体などが別々のムラを形成しており、集団ごとに倫理基準が違います。異なるムラの善悪が対立するとき、横断的な社会正義を追求するのではなく、より広い影響力を持つ一君に「お墨付き」をもらい問題を解決してきたのです。

「空気を読む」を置き換える】
● 会社の空気を読む=会社の前提を理解する
● クラスの空気を読む=クラスの前提を理解する
● 地域社会の空気を読む=地域社会の前提を理解する
● メディアの空気を読む=メディアの前提を理解する

 例えば、業績改善のための会議が開かれたとします。しかし、あらゆる会議の空気は個別に違います。

 挑戦的な新規事業に失敗したことで、業績が傾いたことに苦しんでいる会社ならば、「無謀な新規事業は絶対やらない!」という前提がその会議にあるのです。

 そういう空気(前提)がある場で、業績回復に別の新規事業を提案するのは愚かでしょうし、「こいつ空気が読めてないな」となるでしょう。

 この場合の空気を理解した提案は、効率化とコスト削減や、顧客のロイヤリティを高めること、既存顧客の深耕などでしょう。「新規事業で失敗した」という会社の前提(空気)に従っており、その前提に合わせた提案が受け入れられる確率が高いからです。

 空気(前提)が共同体ごとに存在し、他の共同体と共通の社会正義、あるいは倫理基準は確立されていない。ある種の共通基準を満たすより、立場が高い人のお墨付きを得るほうが得をする。このような社会や組織では、忖度のような行為が流行してしまうのです。

(注)
*4 天谷直弘『叡智国家論』(PHP研究所) P.57
*5 『叡智国家論』 P.57
*6 『「空気」の研究』 P.126

(この原稿は書籍『「超」入門 空気の研究』から一部を抜粋・加筆して掲載しています)