日本社会では、時に組織を縛る「空気」が異常な倫理観を生み出す。山本七平氏の『「空気」の研究』は、戦時下に倫理観の狂った者たちが“あの情況下では仕方なかった”と述べる現象を説明している。この構造は、日本の教育現場の「いじめ」にも如実に現れている。空気によって、いじめに加担する生徒が増えるのはなぜか。日本でネットリンチが生まれやすいのはなぜか? 15万部のベストセラー『「超」入門 失敗の本質』の著者・鈴木博毅氏が、40年読み継がれる日本人論の決定版、山本七平氏の『「空気」の研究』をわかりやすく読み解く新刊『「超」入門 空気の研究』から、内容の一部を特別公開する。

なぜ日本では、ネットの集団攻撃が生まれやすいのか

 

お笑い芸人は「何を」読んでいるのか?

 日本社会では、日常的に「空気を読む」ことが求められます。空気を読むとは、その共同体の「ある種の前提」を理解することです。それは、会議などの堅苦しい場所だけの話ではありません。

 鴻上尚史氏の書籍『「空気」と「世間」』では、テレビ番組でお笑い芸人の方々が、番組を面白くするために、がんばって空気を読んで盛り上げる姿を指摘しています。逆に番組とズレていると、「空気を読め!」と若手芸人は突っ込まれるのです。

 中堅の芸人さんではなく、時には、彼ら大物の芸人さんが自ら「空気を読め!」と突っ込むこともあります(*1)。

 鴻上氏の同書にも、この「ある種の前提」と近い指摘があります。

 つまり、そういう番組の司会者は、何を求め、何を笑い、何を嫌っているか明確だということです。個性と指向がはっきりしているのです(*2)。

 番組を仕切る大物芸人(明石家さんまやビートたけしなど)の人たちは、際立つ個性とともに、出演者に何を求めるかが明確です。若手芸人の方々は、この番組内で「何がウケて、何がウケないか」という「笑いの前提」を理解しようとしているのです。

いじめは必ず「クラスの前提」を読んでから始まる

 お笑いのテレビ番組で、場を盛り上げようと空気を読むことに問題はありません。しかし、別の場面で空気を読むと、おぞましい「いじめ事件」になることがあります。

 いじめで「空気」はどんな役割を持つのでしょうか。ほとんどの加害生徒側は、いじめを始める際に「クラスの空気をさぐる」つまり、「クラスの前提をさぐる」行動をしています。

 いじめの発端は、加害側の生徒が被害者となる生徒を軽く小突く、言葉で一方的に貶るなどの行為から始まります。そのとき、誰からも反論がなく、先生にも怒られなかったとき、加害側の生徒は「ここまでは大丈夫」というクラスの“小さな前提”を一つ確かめたことになるのです。

 いじめに関する著作を複数持つ、社会学者の内藤朝雄氏の『いじめの構造』には、加害者側の生徒が、クラスの空気を読む様子をほうふつとさせる描写があります。

 加害少年たちは、危険を感じたときはすばやく手を引く。そのあっけなさは、被害者側も意外に思うほどである。損失が予期される場合には、より安全な対象をあらたに見つけだし、そちらにくら替えする(*3)。

 加害側の生徒は、ずる賢くも「いじめに対するクラスの前提」を読もうとしています。小さな実験を繰り返し、反撃を受ける・受けない境界線(クラスの前提)を探るのです。

 最初のいじめで、担任の教師が「そのような行為は絶対に許さない!」という断固たる態度と反応で臨むとき、そのクラスの空気(前提)を知ってなりを潜めます。

「自分が損をするかもしれない」と予期すると迅速に行動をとめて様子を見る。そして「石橋をたたき」ながら、少しずついじめを再開していく(中略)。ほとんどすべてのいじめは、安全確認済みで行われている(*4)。

 担任の先生が初期のいじめを放置すると、このクラスは「いじめが許容されている」、と生徒全体が感じます。クラスの前提(空気)で倫理の基準が変わってしまうという意味では、教室の一君である先生から“いじめがお墨付きを得てしまった”とも言えます。

(注)
*1 鴻上尚史『「空気」と「世間」』(講談社現代新書) P.10
*2 『「空気」と「世間」』 P.11
*3 内藤朝雄『いじめの構造』(講談社現代新書) P.138
*4 『いじめの構造』 P.139