なぜ日本ではネットの集団攻撃が生まれやすいのか?

 この倫理は簡単にいえば「あの情況ではああするのが正しいが、この情況ではこうするのが正しい」「(中略)当時の情況ではああせざるを得なかった。従って非難さるべきは、ああせざるを得ない情況をつくり出した者だ」といった種類の一連の倫理観とその基準である(*7)。

 お笑いのテレビ番組内で、独自の倫理観を形成するのであれば実害はありません。

 しかし、それが日本の社会の多様なムラで形成されているとすればどうでしょうか。そのムラでは、独自の空気と独自の倫理基準を持ち、空気に流された人たちは(大人も子どもも)、外から見ると信じられない善悪の基準で行動してしまう。

 学校の教室は、ある意味で外界から隔離された空間であり、空気に影響を受けやすく、悪賢い者がいれば、自分に有利な情況倫理を生み出すことができてしまいます。

 もちろん、情況倫理だからいじめは仕方がないというわけではありません。一人の生徒を無残な死に追いやる行為は、絶対に許すわけにはいかないはずです。

 学校の教室では、先生が空気を正しく支配する役割を放棄したら終わりです。「これをやっても叱られない」「あれをやっても問題ない」、悪意ある生徒がそのように解釈を始めると、クラスの空気(前提)はとたんに悪化の一途をたどります。

 さらに「あの生徒をいじめても問題は起きない」「先生からも叱られない」とわかると、ある種のお墨付きを得た形になり、特定の被害生徒へのいじめがより気安いものになってしまう。それにより、いじめに加担する生徒が増える可能性も高まります。

 これは、ネットリンチも類似の構造を持っています。

 数名の非難する者が集まり、それが抵抗を受けずに非難を続けると「この対象は攻撃してもいい相手」だと、お墨付きを得たように感じてしまうのです。

 そうなると、一般的な倫理ではなく、集団の倫理に早変わりしてしまい、「非難してもいい相手」に無責任な憎悪が集中してしまうのです。

 いじめで生徒が自殺した場合でも、何らかの救済や正しい裁きが行われるのかと言えば、必ずしもそうとは限りません。

 ムラ社会におけるムラの原理から、「いじめはなかった」「学校はいじめに気付くことができなかった」など、“父と子の隠し合い”(『論語』の言葉で、あるムラで父が羊を盗んだとき、子どもは父のために窃盗の事実を隠した、それが親子の間の正直さだという意味)をすることで、ムラを守る行為が行われるからです。学校に限らず、これは日本のあらゆるムラに共通することです。

 空気は、私たち日本人の社会に蔓延しています。共同体にある種の前提をつくることで、倫理基準を何者かが捻じ曲げ、支配する。「空気」の問題を放置している限り、悲劇は繰り返し起こり、防止できません。いたずらに時間が過ぎ去り、「空気が原因」とされて何も解決されないのです。

(注)
*5 『いじめの構造』P.19~20
*6 『いじめの構造』P.20
*7 山本七平 『「空気」の研究』(文春文庫)P.108

(この原稿は書籍『「超」入門 空気の研究』から一部を抜粋・加筆して掲載しています)