なぜ日本の組織は異常な倫理観に染まりやすいのか?

 山本七平氏は『「空気」の研究』で、戦犯の行動、リンチなどの特殊な状況下で「倫理観が狂った」者たちが“あの情況下では仕方なかった”と述べる現象を「情況倫理」として説明しています。そして、日本社会の空気が最終的には、情況倫理に結び付いてしまうのだと指摘しました。

 この構造は、まさに日本の教育現場の「いじめの現実」に如実に現れています。

『いじめの構造』には、加害生徒が、被害者の子どもの苦しみを微塵も感じていないそぶりと、被害生徒の自殺のあとも、反省や憐憫の情をまるで持たない様子が描かれています。

 二〇〇六年一〇月一一日、福岡県筑前町立三輪中学校二年の男子生徒A君が、「いじめられてもう生きていけない」などと遺書を残し、自宅の倉庫で首つり自殺した。
 学校では、一年時の担任X教諭を含め、多くの生徒が辱めや加害行為に関わっていた(*5)。

 この事件では、生徒のいじめに先生も参加してしまったことが指摘されています。
 共同体の前提をつくるのがうまい加害生徒がいることで、「被害者をいじめることでクラスが楽しむ」という狂気の前提を誘導的につくられてしまったのでしょう。

 加害者たちは、A君の自殺を知らされた後でも、「死んでせいせいした」「別にあいつがおらんでも、何も変わらんもんね」「おれ、のろわれるかもしれん」などとふざけて話していた(*6)。

 まともな良識を備えている大人から見ると、加害生徒たちの倫理観は、狂気と呼びたくなるようなおぞましいものです。しかし、次の条件が揃うと、日本の共同体・組織では倫理の崩壊が進行してしまうのです。

●日本の集団が情況倫理に陥るとき
[1]共同体の前提(空気)が管理されず、その集団が隔離されて存在しているとき
[2]一君として空気(前提)を管理する者から、お墨付きを得たと感じられたとき
[3]異なる共同体を貫き共有されるべき、社会正義が確立されていないとき

 集団で共有された空気(前提)が狂うと、空気によって倫理基準も変化してしまう。集団内の空気(前提)に完全に支配され、一人の生徒をいじめる行為に教師を含めた生徒が多数参加して、それを異常と思わない狂気が出現してしまうのです。