「寂しい思いはありますけど、最後の試合でヒラさん(平川)のトロフィーの数を、しっかりとひとつ増やすことができたのはよかったと思っています」

 2003シーズンのヤマザキナビスコカップを皮切りに、平川がレッズ在籍中に手にしたタイトルは8つ。阿部はそのうち半分をともに味わった。喜怒哀楽を共有してきた2歳年上の先輩を、最高の形で送り出せたフィナーレもまた、阿部の涙腺を緩ませた理由だったはずだ。

レッズ再建に粉骨砕身してきた
阿部勇樹のキャプテンシーとは

 レッズにおける阿部の軌跡には、約1年半の空白期間がある。アンカーとして全4試合にフル出場し、岡田ジャパンの決勝トーナメント進出に貢献したワールドカップ南アフリカ大会直後の2010年8月。当時はイングランド2部のレスター・シティーへ移籍した。

 契約期間は3年だったが、阿部自身の強い希望が受け入れられる形で2012年1月に解除され、レッズへの復帰を果たしている。サンフレッチェ広島の監督を辞任し、この年からレッズを率いることが決まった、親しみを込めて愛称の「ミシャ」で呼ばれるペトロヴィッチ監督の存在が阿部を動かした。

「ミシャと一緒にサッカーがやりたい、という思いで向こう(イギリス)から帰ってきた」

 すぐにキャプテンに指名された阿部はペトロヴィッチ監督のもとで、前年にはJ1で残留争いを強いられていたレッズの再建へ向けて粉骨砕身する。ジェフと日本代表でイビチャ・オシム監督に、続けて岡田ジャパンでも重用された阿部を、ペトロヴィッチ監督はこんな言葉で賞賛したことがある。

「私が選手を評価する時、まずはその人間性を、その上で選手としての資質を見る。阿部のような選手がいることは浦和のサポーターにとって誇りであり、幸せなことだ」

 託される信頼感は堀前監督のもとでも、そしてオリヴェイラ監督のもとでも変わらない。前述したように寡黙かつシャイで、集団の中で常に一歩引いた存在で、進んで目立とうともしない男はどのようなキャプテンシーを発揮してきたのか。日本代表DF槙野智章が、こんな言葉を残したことがある。