倒産寸前から、売上「3倍」、自己資本比率「10倍」、純資産「28倍」、25年連続黒字!?
今から25年前の1993年3月。メインバンクからも見放された「倒産寸前の会社」があった。
その名は株式会社日本レーザー。1968年創立、東京・西早稲田にある、総勢65名の小さな会社だ。
25年前、火中の栗を拾わされた、近藤宣之・新社長を待っていたのは、「不良債権」「不良在庫」「不良設備」「不良人材」の「4つの不良」がはびこる《過酷な現場》だった。
近藤が社長就任の挨拶をすると、社員みんながそっぽを向いた。
「どうせ、すぐ辞めるんだろう……」
そんな状況を「一寸先は闇しかなかった」と近藤は振り返る。
しかし、この後、さらに「25の修羅場」が待っていた!
◎生後まもなく、双子の息子が急死
◎41歳で胃潰瘍、42歳で十二指腸潰瘍、47歳で大腸ガン、その後嗅覚喪失
◎腹心のナンバー2(筆頭常務)の裏切りに遭い商権喪失。売上2割ダウン
◎親会社からの独立時に、妻に内緒で「6億円の個人保証」
◎どんなに頑張っていても、たった1円の円安で年間2000万円もコストアップ
◎ある日突然、海外メーカーから「メール一本」で契約打ち切り(その数、計28社)
それがどうだろう?
倒産寸前の25年前と比較し、直近では、売上「3倍」、自己資本比率「10倍」、純資産「28倍」。10年以上、離職率ほぼゼロ。しかも、第1回「日本でいちばん大切にしたい会社」大賞の「中小企業庁長官賞」を皮切りに、経済産業省の「ダイバーシティ経営企業100選」「『おもてなし経営企業選』50社」「がんばる中小企業・小規模事業者300社」、厚生労働省の「キャリア支援企業表彰2015」厚生労働大臣表彰、東京商工会議所の第10回「勇気ある経営大賞」、第3回「ホワイト企業大賞」を受賞。新宿税務署管内2万数千社のうち109社(およそ0.4%程度)の「優良申告法人」にも認められたという。
絶望しかない状況に、一体全体、何が起きたのだろうか?
「壮絶な修羅場のエピソードだけでなく、その修羅場をどう乗り切ったかの全ノウハウをすべて書き尽くした」という『倒産寸前から25の修羅場を乗り切った社長の全ノウハウ』 が、いよいよ4月11日に発売される。「25の修羅場」とは? 「全ノウハウ」って?
それでは、「修羅場経営者・近藤宣之氏」にその秘密を初めて語ってもらおう。
私のキャリアをひと言で表すなら……
株式会社日本レーザー代表取締役会長
1944年生まれ。債務超過に陥った子会社の日本レーザー社長に抜擢。就任1年目から黒字化、以降25年連続黒字、10年以上離職率ほぼゼロに導く。役員、社員含めて総人員は65名、年商40億円で女性管理職が3割。2007年、日本初の「MEBO」で親会社から独立。2017年、新宿税務署管内2万数千社のうち109社(およそ0.4%程度)の「優良申告法人」に認められた。日本経営合理化協会、松下幸之助経営塾、ダイヤモンド経営塾、慶應義塾大学ビジネス・スクールなどで年60回講演。第1回「日本でいちばん大切にしたい会社」大賞の「中小企業庁長官賞」、第3回「ホワイト企業大賞」、第10回「勇気ある経営大賞」など受賞多数。「人を大切にする経営学会」の副会長も務める。著書に、ロングセラーとなっている『ありえないレベルで人を大切にしたら23年連続黒字になった仕組み』などがある。
【日本レーザーHP】 http://www.japanlaser.co.jp/
【夢と志の経営】 http://info.japanlaser.co.jp/
1968年、慶應義塾大学工学部電気工学科を卒業後、私は「日本電子株式会社」の門をたたきました。
母の友人の甥にあたる男性が日本電子の社員であり、彼は、オペレータ兼サービスエンジニアとして「パリ」に赴任。
世界を相手に、英語やフランス語を巧みに操って活躍するその姿は、やがて私の憧れになりました。
「自分も、あの人のようにグローバルな仕事がしたい。
セールスエンジニアとして世界を飛び歩いて活躍したい」
その夢を実現するために選んだのが、日本電子です。
当時の日本電子は、「第2のソニー」「第2のホンダ」ともてはやされていました。
コンピュータ事業ではIBMから提案のあった提携を蹴るなど、時代の寵児となっていたのです。
『週刊文春』に掲載された、「“IBM”をソデにした日本電子」という記事を読み、「敗戦後の日本を技術で再建する」「科学技術で戦後復興に貢献したい」という創業経営者の志に心から共鳴していました。
入社後は、電子顕微鏡部門・応用研究室に配属。
ソビエト連邦(当時)のレニングラードやモスクワに駐在しました。
ところが……です。
順調に見えた私のキャリアは、その後、激変しました。
私の目の前に続いていたのは、舗装された平坦な一本道ではなく、
「山あり谷あり、波あり、壁あり、落とし穴あり」。
そして、「涙あり」。
実に紆余曲折だらけ人生でした。
私のキャリアを「ひと言」で言い表すなら、
次の言葉ほどふさわしい言葉はありません。