二元論で物事を語るのは
「多様性」から遠い発想

 もちろん、どのような思想や考えを持とうと個人の自由ですし、私も、「LGBT活動家」とされている方々の活動や言動のすべてに賛同できるわけではありません。「アンチ」の方の意見の中には、参考になるもの、耳を傾けるべきものも少なからずあります。ですが、一部の「活動家」の過激な言動だけを取り上げて、それがさも、「活動家」全般の特徴であるかのように喧伝したり、(これも昔からほとんど変わらないのですが)「自分は十分幸せだから、今のままでいい」「寝た子を起こすな」といった考えから、「活動家」のやることにやみくもに反対したりする人たちを見ると、やはり「いかがなものか」と思わずにはいられません。

 多くの「活動家」が求めているのは、「セクシュアルマイノリティだけが優遇されること」ではなく、「『同じようにこの社会に生き、税金を払っていながら、与えられていない権利』を取り戻すこと」です。そしていつか、それらの権利が与えられるようになれば、今、「アンチ」の立場をとっている人、「政治運動ってうさんくさい/面倒くさそう」などと思っている人も、当たり前のような顔をして恩恵に預かることになるでしょう。女性や黒人の権利獲得の歴史を見れば明らかです。

 なお、私自身は、現時点ではパートナーがいないため、正直言って、同性パートナーシップ証明や同性婚に対し、あまり必要性を感じていません。でも、いつの日かパートナーができたとき、「この制度があってよかった」と思う可能性は十分にありますし、同性カップルが「当たり前」とみなされる社会が訪れれば、自分のセクシュアリティに必要以上に悩む人も少なくなるはずです。「今の自分」だけを基準に物事の是非を判断するのは、あまりにも視野が狭すぎるのではないでしょうか。

 それにしても、一部の「活動家」が「アンチ」を「ネトウヨ」、「アンチ」が「活動家」を「パヨク」と呼び、相手の言動を攻撃しあっている様を見ると、思想的には真逆のようでありながら、やっていることはまったく同じだと、呆れずにはいられません。

 そもそも「左/右」「女/男」など、二元論によって物事を語るというのは、「敵」と「味方」をつくり、対立を深めるだけであり、もっとも「多様性」から遠い発想です。

 私たちが戦うべきものがあるとすれば、それはこうした「人と人を対立させ憎悪をあおるような思考パターン」なのではないかと、私は思うのです。

※本稿は、インクルージョン&ダイバーシティマガジン「オリイジン2019」の掲載記事を転載したものです。