「こんなに苦しいのは自分だけか、と思うことも、たくさんあるんですよ。(中略)あのヒットを1本打つのに、どれだけの時間を費やしているか。あのヒットの1本が、どれだけうれしいか……。もちろん、そのそぶりは、見せないですよ。でも、ヒット1本って、飛びあがるぐらいにうれしいんですよ、実は。03年の200本安打のときなんて、涙が出ましたから」(「三回表 一本のヒットがどんなにうれしいか」から)

 イチローは記録を達成した直後、守備についたとき、泣いている自分に気づく。悔しくて泣いたことはあったが、うれしくて泣いたことは、今まで一度もなかった。これが初めてのうれし涙だった。

 私たちは、イチローが当たり前のようにヒットを打つものだと思い続けていなかったか。あまりにも平然と記録を更新していくものだから、いつしかそれが「普通」だと思い込むようになり、イチローのことを何か珍しい生き物のように見ていなかったか。

 試合前のスタジアムは、異常な興奮と不安が入り交じっている。先発する選手だけでなく控えの選手たちも、数時間後に宣告される「プレイボール」に合わせて、ゆっくりと時間をかけて気持ちを昂らせていく。だが、イチローはひとり消える。試合が始まる直前に、チームメートがいるダグアウトから。その日々がどのようなものだったのか、容易には想像できない。だが、それに向き合うことが、イチローに対する私たちファンの礼儀だと思う。

 本書に収録されたインタビューを振り返り、「(イチローではなく)鈴木一朗さんに会えた時間でした」と糸井重里は語った。そして復刊に際し、次のような言葉を寄せてくれた。

「ヒット1本が、どれほどうれしいか。ぼくらは、いまごろになって理解する」

(文中敬称略)

(書籍編集部・斎藤順一)

AERA dot.より転載